[序]

さわさわさわさわ。
海から吹き寄せる風が竹林を揺らしていた。
その風の音に時折、海岸沿いの国道を行き交う車の喧噪が混ざる。
だがそれを除けば、辺りにはただ静寂が満ちているのみだった。
竹林の中に一軒の家が在った。
灯りは点っていない。
住人は寝静まっているのだろうか。
その家は竹林を従えた丘陵の途中に在った。
そしてそこを見下ろすように立つ一本の巨木の上に蟠る影。

ねぇ。ほんとうにここにくるのかな。
ここかはわからないわ。でも、たしかにあのひとたちのもとへやってくる。
じゃぁ、まってるしかないね。
あなたはずっとみていてね。わたしはいそがしいの。
わかった。ずっとみてる。ずっと。

小さい影が、ふぅっ、と消えて後には少し大きな影が残った。
だが雲が切れて月灯りが辺りを照らすと、その影も何処かに消えてしまった。
その間も虫達は何も無かった様に唄い続けていた。


[壱]

その日、蒼斧蛍汰がバイト先に着いたのは、まだ日の高い時間だった。
「おう、蛍汰か。今日は早いな。サボったんか?」
「違いますよ。休講ってやつっす。」
「ならええが。早速アレ頼むわ。」
「了解〜。」
最近の蛍汰の仕事は専ら出荷直前の製品の最終調整の手伝いだった。
もっとも専任の社員が居る訳でも無いので実質は彼が全面的に見ているのに近い。
多品種少量生産となりやすい中小企業ではそもそも専任という事は少ない。
彼もまた、その時々で色んな事を手がけていた。
大学3年の秋ともなれば、そろそろ就職先の目星ぐらいは付いて居る時期だ。
だが蛍汰はそういう事にあまり関心が無かった。
というよりはとっくに決まっていたと言った方が正確かも知れない。
名目上はアルアイトであったが、彼はここアカマツ工業では既に労働力として
当てにされている存在だった。蛍汰自身もまた、それを受け入れていた。
先輩達は気心が知れていたし、何より社長の人柄も好きだった。
蛍汰も、そしてアカマツ工業の仲間達も、彼が卒業後に正式な社員となると
思っていたし、多分そうなるだろう。

早目に出社した分、いつもよりは多くの作業をこなした蛍汰は
日も暮れかかった時間にはかなりへばっていた。
仕事の選り好みはしない方ではあるが、やはり苦手という物はある。
製品の最終調整は単純で苦手な部類だった。
どちらかと言うと設計や試作の方が性に合っていると思う。
その苦手意識の所為か余計に疲れた気がするのかもしれない。
蛍汰は充分に納期に間に合うペースであることを確認してから休憩を
取る事にした。ちょっと眩暈がする。社屋の事務棟2階にある休憩室へ上がった。
中へ入り4列並べて在るソファーの一番手前に腰を下ろそうとした時、
奥のソファーに誰か居ることに気が付いた。
こちらに背を向ける格好になっていて、誰なのかよく判らない。
おまけに部屋が何だかとても暗い。
シルエットは髪の長い女性の様に見えた。リっちゃん?それとも事務の
佐藤さんだろうか。声を掛けようかと迷っていると向こうが振り向いた。
見覚えの有る、いや、忘れるはずの無い顔が微笑んでいた。
「麻御さん ...」
蛍汰がそう呟くと、その姿は奥の闇へと滑って行った。
何か言いたげに口許が動いた気もするが、蛍汰にそれを顧みる余裕は無かった。
「あわわわわわわわっ」
啓太はソファーから転げ落ちると、四つん這いで出口へと逃げた。
すると扉が勝手に開いて別の何かが入って来た。
「ギャーっ」
「ヒェ〜っ」
蛍汰は叫び声を上げると仰向けにヒックリ返った。
その蛍汰の足下に、見覚えの有る禁煙パイプが転がって来た。
何時の間にか廊下には灯りが点されていて、その白い光の下に
蛍汰の声に驚いたリっちゃんが上半身をのけ反らせて立っていた。
「蛍汰くん、それは失礼なんじゃない?」
「でででででででで」
「いきなり叫ばれちゃ、かなわないよなぁ。」
「あ、あ、あ、あささささっ」
「朝じゃなくて、夕方だって。」
蛍汰は廊下に飛び出すと休憩室と反対側の窓辺に跳び退いてから深呼吸した。
そして今しがた見た事をまくしたてた。
リっちゃんは休憩室の灯りを点すと中を見回した。そこには、誰も居なかった。
「やっぱりねぇ。」
「やっぱりって、どういう事っすか?」
「最近さぁ、多いのよ。」
「まさか ...」
「そうなの。出るって、だから事務の娘達とか昼間でも此使わないのよ。」
「出るのって、やっぱり ...」
「そう、それは .....ワタシぃ」
リっちゃんはそう言って蛍汰に向かって両手をブラブラさせて見せた。
「からかわないでくださいよ。本当に見たんすよ。」
「蛍汰くん、今日は頑張り過ぎたんじゃない。それにさぁ、麻御さん、
 死んだって決まった訳じゃないしさぁ。」
それが気休めだという事はお互いに判っていた。4年前のあの日の後、
解体されたモーディワープの事後処理チームがアカマツ工業にも来たが
その中に都古麻御の姿は無かった。彼女が一番此に詳しいはずなのに。
「そうかも。そうっすよね。ハハハ」
「そうそう。今日はここまでにして上がりなよ。定時だし。」
言われて時計を見ると、もう6時を回っていた。
どうやら、小1時間程は休憩室で過ごした様だった。
気付かずに眠っていたらしい。するとあれは夢だったのか。
釈然としなかったが、蛍汰はリっちゃん言われた通りに今日は帰る事にした。
同じ廊下の並びに在るロッカー室に入る間際、リっちゃんが蛍汰に言った。
「あ、そうだ、忘れてた。社長がさぁ、ちょっと来てくれって言ってたよ。」
「わっかりましたぁ。」

*

蛍汰は私服に着替えると社長室の扉をノックした。
「おう、入れや。」
「失礼しまぁす。」
社長室に入ると奥の窓際に置かれた机に腰掛けた阿嘉松社長が目に入る。
夕方だというのに相変わらず真っ昼間の様に身体から何かがモヤモヤと
沸き上がっている様な人だと蛍汰は思った。
ふと目を脇の応接セットへ向ける。
応接セットに座っていた娘がゆっくりと立ち上がると、蛍汰の側に来た。
蛍汰は黙って見詰めた。少しだけ大人びているが忘れるはずはない顔が。
「お久しぶり。」
「いやぁ見違えちゃったよ。何時戻ってきたの? 元気そうだね。」
彼女はそれ以上何も言わず、ややあって顔を阿嘉松社長に向けた。
「悪戯はそれぐらいにしとけな。」
ちょこんと頷くと娘は蛍汰に向き直って言った。
「初めまして。蒼斧蛍汰さん。」
「はっ?」
蛍汰は情況が飲み込めない。
「紗孔羅ちゃん?」
いつのまにか側に来た阿嘉松社長が説明した。
「コイツは俺の娘で紅絹思ってんだ。ちょうど顔出しやがったから
 紹介しとこうかと思ったんだが。」
「モミジちゃん?」
「おうよ。可愛いだろうが。」
「蛍汰さんの事は姉さんから色々聞いてます。」
「それじゃ、もしかして紗孔羅ちゃんの?」
「妹だよ。双子のなぁ。」
「御免なさいね。ちょっと興味あったの。姉さんが戻った時に
  噂の蛍汰さんが何て言うか。」
紅絹思はそう言ってから小首を傾げて微笑んだ。
「いやぁ、ハハハハ。」
蛍汰には取りあえず笑って誤魔化す位の返事しか思い付かなかった。
「良くねぇぞ。そういうのはよ。」
「御免なさい。」
紅絹思は本当に紗孔羅に良く似ていた。いや、それは正確ではない。
今の紗孔羅もきっと同じ姿に違いないと蛍汰には思われた。
蛍汰はその紗孔羅の事もついでに聞く気になっていた。
「阿嘉松さん、それで紗孔羅ちゃんの具合は。」
「ああ、相変わらずらしい。」
「私、その報告に来たの。」
「あ、そうだったんだ。」
紅絹思は昼前の便で帰国したのだと言った。
今まで知らなかったが、阿嘉松社長の代わりに頻繁に
様子を見に行っているのだと紅絹思は言った。
それから当たり障りの無い話を暫くして、蛍汰は家路に就いた。

*

家に帰ると同居人が出迎えてくれたので、蛍汰は急にほっとして力が抜けた。
「おかえり蛍ちゃん。今日は遅くなるって言ってなかったっけ?」
「うん。捗ったから早く上がったんだ。」
「そうなんだ。途中で電話してくれればよかったのに。晩ご飯ないよ。」
「ああ、いいよ別に。何か食欲ないし。」
そんな話をしながらリビングに入る。テーブルには簡単な料理が並んでいた。
どうやら火乃紀は食事の真っ最中だったらしい。
「半分上げようか?」
「いや、大丈夫。気にしなくていいよ。」
二人がここで暮らすようになってもう少しで2年になる。
同居を始めようという話が出たときに、この家で暮らそうと言いだしたのは
火乃紀の方だった。忘れようとするのではなく、全てを受け止めた上で
新しい一歩を踏み出そうという彼女の意思の現れだと思った蛍汰は反対しなかった。
それに此は二人の通う大学からも然程遠くなく、おまけに家賃が要らないというのも
バイト暮らしには有難かった。
唯一の弱点は町から少し離れていてコンビニ世代の蛍汰にとっては
買い物が不便だったこと。それも慣れればどうという事もなかったが。
火乃紀は食事の後片付けを終えると、リビングでぼんやりとTVを見ていた蛍汰の
傍に座る。そして、どちらとも無く今日有った出来事を語り合った。
いつものひととき。大抵は他愛の無い事だったが、それで二人には充分だった。
蛍汰は今日アカマツ工業で遇った二人のうち紅絹思の事だけを話した。
火乃紀は阿嘉松社長に紗孔羅以外にも子供がいることまでは知っていたと言った。
だが、それ以上その話題が続くことは無かった。
何となく、二人にとって苦いものが混ざる思い出につながってしまうから。
窓の外では虫の声が過ぎ去った日々を懐かしむ様に鳴いていた。

[弐]

その日、納品先からの急な要請で同じ日に出荷しなければならない製品が
複数重なってしまっていた。
蛍汰をはじめとしてアカマツ工業の面々は目一杯働いた。
何とか間に合わせる目処が立った時点でバイトと女性社員は帰される事となり、
蛍汰も辛うじて地元のローカル線の終電には間に合う時間に
幹線のターミナル駅に辿り着いていた。
此から中距離路線に乗り換えて、更にローカル線に乗り換える。
ホームのベンチで伸びている間に居眠りをしてしまい、
危うく目的の電車を見送ってしまいそうになった。
慌てて飛び込んだ途端に電車が走り出し、蛍汰はほっと胸をなで下ろした。
そして、ふと気付く。珍しい事もある。蛍汰以外に誰も乗っていない。
最後尾の車両である。蛍汰は真ん中辺りの椅子に延び延びと腰掛けた。
何だか車内の照明が何時もよりも暗い気がするが気の所為だろうか。
単調な電車の機械音に耳を傾けているとまた眠気が襲ってきた。
疲れているのか?自分でも最近おかしいと思う。妙に眠い。
重くなった瞼を何とか支えながら車内を見渡す。何故だか視野が狭い。
正面は普通に見えるのに、視界の端が真っ暗だ。
だが、すぐに気付く。そうでは無い。暗いのは車両の窓際だった。
真ん中の通路だけが見えている。連結部を通して、その先も同じに見えていた。
蛍汰はその不思議な空間の先を食い入るように見詰めた。
いつのまにか眠気は去っていた。
代わりに何かが近づいて来ていた。前の方の車両から何か来る。
もっとよく見ようとして目をしばたいたが、電車がカーブに差し掛かり
前の方の車両への見通しが効かなくなってしまった。
電車が直線に掛かるのを待つ間も、蛍汰には何故か、何かが来るのが
はっきりと判った。すぐそこまで来ている。隣りの車両だ。
ガタタッ
突然、後ろから物音がした。恐る恐る振り返る。
まず開いている窓が目に飛び込んできた。初めから開いていたか?
思い出せない。そしてさらに首を回す。
通路に誰か立っていた。
もう秋だというのに真夏にしか見かけない肌の露出の多い格好をした少女がいた。
ジーンズのホットパンツに黄色のハーフトップ。ボロボロのスニーカー。
小麦色の肌は日焼けではなく人種的なものだろうと思われた。
背丈は蛍汰より少し大きいかもしれないが、顔立ちからして十代前半ぐらいに見える。
知らない少女だと蛍汰は思った。誰だろう。

わすれちゃったの?ひどいな。せっかくきてあげたのに。

「えっ?」
今の声は何処から聞こえたのか。蛍汰は一瞬辺りを見回した。
だが、すぐに気付く。いや、本当は聞こえた瞬間に判っていたのだ。
ただ、それが信じられなかった。信じたくなかったのかも知れない。
「チャンディ?」

どうしていつもいつも、あんたってあぶないとこにいるのかな。

蛍汰が何かを応える前に、その少女=チャンディは彼の横を駆け抜けていた。
そして蛍汰が振り向いた時には、信じられない光景がそこに在った。
立っているのはチャンディ。彼女の左手、多分左手だろうと思われる鉤爪が
何かを掴んで高く掲げていた。
それは首だった。正確に言えば首をわしづかみにされた人間の様な物だった。
首から上が在らぬ方向を向いていた。目玉だけが無意味な往復運動をしている。
胴体はもっと良く判らない物だった。服装は人間の物だ、多分。
袖口からは手の代わりに皮紐の様な物が飛び出してチャンディの腰の辺りに
巻き付いていた。だが彼女は意に介していない様だった。
ふるふる。ふるふる。
その何かが啼いた。
チャンディが左手に力を込めると、
ぶちっ
耳に残る嫌な音がして皮紐がだらんと垂れ下がり、目玉も動かなくなった。
チャンディはそれを持って蛍汰の傍にやってきた。

ほら。こんなのが、けいたのまわりにうろうろしてる。

「それっていったい何?」

ええと、あんたたちのいいかただと、なんていうんだっけかな。

蛍汰には何となく判って来たので別な事を聞いた。
「もう死んでる?そいつ。」

うん。もうだいじょうぶだよ。こいつよわいから。

チャンディはそう言うと、それを軽々と放り投げた。
それは蛍汰の脇をかすめて、開いていた窓から外の闇に吸い込まれた。
まったく何の重量感もない紙切れの様にそれは電車の後方に飛んでいった。
それほど大きくはない窓枠にぶつかりもしなかった所を見ると
本当に大した質量も体積も無いのかも知れない。
そんな事を考えながら蛍汰がチャンディの方を振り向くと、その瞬間に
彼女の左手の鉤爪が形を変えながら手首の辺りに吸い込まれる様に消えていった。
思わず蛍汰は足下を見渡した。
「プレトは?」

いないよ。あげちゃったの。

「あげたって、誰に」

おともだち。けいたによろしくっていってた。

心当たりがない。誰かは判らなかった。
何となくだが、これ以上聞いても名前は出てこないという気がした。
「それじゃ、今のその手は?」

よくわかんない。いつのまにか、ぷれとといっしょじゃなくても
できるようになったんだよ。

蛍汰は昔、麻御に聞いたことを思い出していた。
プレトの正体は甲殻形成バクテリアという小さな生き物の集合なのだと。
そして、それはチャンディと共生関係にあるのだとも言っていた。
これがその共生というものなのだろうか。
だが、彼女はプレトはここには居ないと言っている。
蛍汰には、それ以上の考察を巡らすだけの知識が無かった。
蛍汰が現実に戻ってみるとチャンディは既にどこにも居なかった。
いつのまにか車内は元の明るさを取り戻しており、
それが却って眩しく感じられ、居心地が悪かった。
蛍汰は開いたままの窓をずっと見詰めていた。

[参]

帰りの電車で遇った出来事を一気に話終えると、
蛍汰は思い出した様に深呼吸した。
傍らで黙って聞いていた火乃紀は、やや間をおいてから言った。
「また、始まるの?」
その表情を見て、蛍汰は話したのは失敗だったかと思った。
だがすぐに考え直した。知らせなければならない、警告しなければ。
次は彼女の元に現れるかも知れないのだ。何者かが。
「判らない。でも、これで終りとは思えないんだ。」
だから蛍汰は思ったことを正直に話した。
「あの娘、チャンディが来たんでしょ。何か言ってなかった?」
「詳しいことは何も。また危ない所に居るとか何とか。」
蛍汰は他に何か言っていなかったかと、チャンディの事を思いだそうとした。
だが、それ以上何か重要な事は言わなかったはずだ。
結局その夜は、何も結論らしき物は出ず二人は休んだ

*

翌日、二人は連れだってアカマツ工業を訪れた。今、こういった問題を
話せる相手は此にしか居なかった。だが残念ながら話せるというだけの事だ。
蛍汰が全て話終えた後、阿嘉松社長は一つ唸ったきりで暫く何も言わなかった。
やがて搾り出す様に口を開く。
「蛍汰の言う様に何かおっ始まってるのは確かだな。だがよう、俺達じゃ
 どうにもならねぇぜ。弱ったな。こんな時居て欲しい連中は誰も居ねぇ。」
「モーディワープの関係者とか連絡つきませんか。」
「無理だな。組織自体無くなったって話だし、おまけに奴らウチとの
 取引に関する資料まで回収してった位ぇだからよぅ。」
「やっぱり駄目っすよねぇ。」
「だがこのままって訳にもいかねぇだろ。ちっと話の判りそうな奴に
 当ってみるからよ。ま、心配すんなって。」
気休めでしか無かったが、それでも多少は楽になったと蛍汰は思った。
火乃紀はどうだろうと彼女の方を見たが、彼女が何を考えているかは
判らなかった。全然別のことを考えているように蛍汰には見えた。
「ところでよ、お前らんとこ辺鄙だから暫くココに泊まったらどうだ。」
「此にっすか?」
「おうよ。セキュリティは大分強化してるしよ。建物の回りの動きはバッチリと
 判る様になってるぜ。少なくとも鎌倉の山ん中の一軒屋よりは安全ってもんさ。」
「どうする?火乃紀。」
「う〜ん、有難いけど、着替えとか、準備とか色々あるし。」
「そうだよな。」
何となく気乗りがしないらしい事は蛍汰には判った。考えてみればアカマツ工業で
ひどい目に遇った回数の方が多いのだ。結局の所安心出来る場所ではない。
阿嘉松社長もそれを察してか、それ以上強くは勧めなかった。
「ま、ヤバくなったら何時でも来いや。」
「ありがとうございます。」
二人は礼を言うとアカマツ工業を後にした。蛍汰の仕事は今日は無しとなった。
火乃紀を一人で帰らす訳にもいくまいという阿嘉松社長の配慮である。

*

二人の許に電話があったのは、アカマツ工業から戻った直後だった。
「あ〜もしもし、彩さんのお宅ですか?」
「えっと、はいそうですが。」
蛍汰は一瞬迷ってしまった。此に電話をしてくるのは二人の友人か
アカマツ工業の人間だけで、ほとんどがいきなり名前を呼んでくる。
そう言えば、此は表向きは彩家だったのだ。
「恐れ入りますが、火乃紀さんは御在宅でしょうか?」
「どちらさんでしょうか?」
「私、斑卦ともうします。彩博士には色々とお世話になっていた者ですが。」
「ああ、そうなんですか。ちょっと待ってて下さい。」
受話器を電話機の脇に置くと蛍汰は火乃紀を手招きした。
それから受話器を取上げて、送話口を手で押さえながら言った。
「斑卦さんてしってるか?彩博士の知り合いって言ってるんだけど?」
「さぁ、判んないよ。あんまり仕事での付き合いの話聞いてないし。」
そう言いながら、火乃紀は受話器を受け取る。
「もしもし、お電話代わりました。」
「やぁどうも、久しぶりですね。」
「はぁ。あのう」
「いや、これは失礼。私、斑卦と申します。火乃紀さんがまだ、お小さい頃に
 お会いしたことがあるのですが。覚えていらっしゃらないでしょうなぁ。」
「ごめんなさい。」
「いやいや、当然です。こちらも長いこと御無沙汰してましたから。」
「それで、あのご用件は。」
「あ、そうでしたね。実はですね。私、先頃ですが、彩博士のやり残された
 お仕事を引き継ぐようにですね、依頼されまして。」
「はぁ。」
「それでよろしければ、お父上の残された研究に関する資料などを
 拝見出来ないかと思いまして。」
「それは構いませんが、あまりこちらには父の仕事に関する資料は無いのですが。」
「いやいや全然構いません。変な話ですが、そういう調査といいますか、
 探したという事実が欲しい訳でして。ご理解頂けますか。」
「ええ、何となく。」
どうも斑卦という男は建前が支配する組織の人間らしいと火乃紀は思った。
「それで早速なのですが、お父上の書斎など残されていますか?」
「はい。そのままになってます。」
実際、この部屋は手つかずになっていた。心情的理由も多少はあったが
片付けようにも取捨の判断をしかねたと言うのが本当のところだった。
火乃紀には意味不明の資料やら書籍やらが大量に残されていたのである。
もともと大きな家なので、一つや二つの部屋を手つかずで残しても
蛍汰と二人で暮らすのに何の不自由も無かった。
「で、ご都合の方は如何でしょうか。こちらとしましては、なるべくお邪魔に
 ならない日取りにいたしたいと存じますが。」
「ちょっとお待ち頂けますか。」
火乃紀はそう言うと蛍汰がしたのと同じように送話口を押さえて
相手の用件を手短に蛍汰に伝えた。
「火乃紀が構わないなら俺は別にいいぜ。何時でも。」
「今度の週末、でいいかな。蛍ちゃん一緒にいてくれる?」
「もちろん。」
斑卦もそれを了承し、週末に来訪すると言って電話は切れた。
落ち着いて考えてみると、蛍汰も火乃紀も、この時期に降って涌いたこの話に
何か胡散臭い物を感じない訳にはいかなかった。

[四]

週末に現れた来客は蛍汰と火乃紀にとって二つの意味で予想外だった。
一つ目は、来客が一人ではなかった事である。4人の男と1人の女が来たのだ。
彼等は女も含めてみな同じ様な地味なスーツ姿であった。
都会ならば目立たない格好と言えるだろうが、ここいら辺では妙な集団だ。
もう一つの意外な事は、斑卦と名乗った人物がどう見ても日本人では無い事だった。
その疑問を察したらしく、彼はすぐさまにこう言った。
「母方にフランス人の血が入ってましてね。私自身は日本国籍ですが。」
火乃紀が5人を書斎に案内すると、彼等は早速に資料の山に目を通し始めた。
彼等を残してそこを離れるか、ずっと見ているべきか迷ったが、
書類の価値が判らないのだから見ていても仕方ないという結論に達したので
火乃紀は彼等を残してリビングに戻った。
「凄げぇ怪しい連中だな。」
蛍汰の感想ではあるが、火乃紀の感想も似たような物だった。
結局彼等はその日まる一日粘った。
そして火乃紀を呼ぶと、書類の山を指差して言った。
「これらを拝借したいのですが、許可を頂けますか?」
ちょっと迷ってから火乃紀は言った。
「貸し出す前に内容を確認させて頂けますか?」
そういう返事を斑卦は想定していなかったらしく、少し考えてから言った。
「判りました。では、明日にでもこれを引取りに伺いますので
 それまでに許可頂けるかを御判断頂けますか。」
それならば異存は無いという事で火乃紀はそれを承諾した。
彼等が引き上げた後、火乃紀は蛍汰にも事情を話して
内容の確認を手伝ってもらう事にした。
といっても、やはり内容はさっぱり理解出来ない物だった。
実は秘かに二人は幾つかの単語がそれら資料の中に在るのではと
考えて居たのだが、蛍汰や火乃紀が知っているキーワードは出てこなかった。
ただ、蛍汰の発案で電子情報の形の物は手元にコピーを残す事にした。
光ディスクが数十枚あり、これのコピーで徹夜となってしまった。

*

都内のオフィス街にある、何処にでも在りそうなビルの最上階。
殺風景な部屋。窓際に置かれた大きめの事務机に腰掛けた人物が
目の前にある端末に向かって頷いて見せる。
「仰有りたいことは判ります。」
特別の回線を使っていても画像を伴う通信は負荷が大きいらしく、
相手の影像はぎこちなく腕を組み直した。
「割楽くん、言うまでもないだろうが、
  こちらとしては投下した資金は最低でも回収したい。」
「ですがこちらも人手不足でして。」
「丁度そちらに滞在中の人員が一人居る。彼にサポートさせよう。」
「一人ですか。」
「もともと君の所のミスだ。表に出たら、ただでは済まない所だぞ。」
「仰有る事は御尤もですが、オモテに出るとマズいのはお互い様ですが。」
画面の向こうで鼻を鳴らすのが聞こえる様だと割楽は思った。
「兎も角、速やかに処理したまえ。出来損ないに彷徨かれては迷惑だ。」
「出来損ないでは無く、亜成体です。」
「名前などどうでもいい。」
それだけ言うと相手から回線を切ってしまった。
まただ。またやってしまったなと彼は思う。
どうもスポンサーの機嫌を取るのが苦手だ。
その所為で過去に何度も成功のチャンスを逃したのだ。
今度は逃しはしない。ネタは充分に揃えた。後はいかに高く売り込むか。
「今度は私が楽しむ番ですよ、先生。」
割楽は窓の外に向かって独り言を言った。
さてと腰を浮かしかけた丁度そのとき、ドアをノックする者が在った。
「どうぞ。」
ワイシャツにだらしなく弛めたネクタイ姿、
その上に白衣を羽織った男が入って来た。
したのかしないのか判らない程に浅い一礼をすると彼は側に来る。
「会長、また盛り上がってましたね。」
「嫌味だな。」
と口では言うものの、別に気にしている風では無い。
それは彼=飯霧も承知しているので早速にも本題を切り出した。
「奴らですが、何か特定のモノに反応して動いている様です。」
「何かとは?」
「恐らくリンクパストインパルスでしょう。」
「実験室での異常反応のトリガーとなった奴ね。」
「ええ。自然界では滅多に存在しませんから影響評価を後回しにしていたのが
 失敗でした。」
「それなら行動予想が出来るんじゃないかな。」
「ただ、非常に微弱な信号ですから、純電子的な装置では無理があります。」
割楽はちょっと考えてから言った。
「ところで、その微弱な信号が原因だと何故判った?」
「追跡班からの報告です。既知の因子保持者と接触したらしいのです。」
「例の生き残り組か ...」
「ええ。それと ...」
「何かな?」
「我々の関知しない何者かか動いている様です。」
「どういうこと?」
「一匹始末されました。」
「自殺タイマーが効いたんじゃ無くて?」
「あれはあまり当てにならないんですよ。それに綺麗な死体でした。」
「ふうん。」
亜生体が自滅する際は原形を留めないはずだった。
それが形を保っていると言うことは元気なうちに
殺されたという事を意味している。だが、誰が。
「まあ、いいさ。手間が減るのは歓迎するよ。ただし、好意的な動機とは思えない。
 そっちの調査もしなければならんなぁ。追跡班は引き続いて探索継続。
 その何者かも、つられて出てくるだろうし。」
「見つけた後の処理はどうしますか? 追跡班の手に負える相手とは思えませんが。」
「それなら大丈夫。その方面の技術者が一人来る予定になっているから。」
「何処からです?」
「遠くからさ。」

[伍]

斑卦の使いと名乗る男達に段ボール三箱分の資料を引き渡したのは
まだ二人が遅い朝食を摂る前の事だった。結局、徹夜した二人は
日が高くなっていた事もあって、そのまま日曜日恒例の家事を始めた。
庭掃除である。この時季になると少しづつではあるが落ち葉が増え始める。
炎天下での雑草との格闘よりは楽だが、それもピークになると結構大変だと
昨年の最初の秋に身にしみた二人は、今年はまめに庭を掃こうと決めた。
特に植えた訳でも無かったが、庭の所々に生えた秋桜花が多少は慰めとなった。
辺りの林からの招かれざる客が概ね片付いた頃、その日二組目の来客があった。
蛍汰は二度目だったが、初対面の火乃紀は傍から見ても驚いた事がよく判る。
「こんにちわ。突然お邪魔して御免なさい。」
紅絹思はそう言うと、ぺこりと頭を下げてから屈託の無い笑みを見せた。
「よく此が判ったね。」
蛍汰は何故かずっと知っている相手の様な錯覚に陥っていた。
その所為もあって、会話にぎこちなさは無かった。
「お父さんに聞いてきたの。とってもいい所ね。」
「まぁね。静かだし。」
住み始めた頃は静かすぎて落ち着かないと言っていたのは
何処の誰だったかしらと火乃紀は思った。
三人分のお茶を用意すると、庭にあるテーブルの上に並べた。
お茶菓子は、お持たせのクッキーだった。
「で、どうしたの突然?」
紅茶をすすりながら、火乃紀は何故だか二人の会話がTVの向こうの会話の様に
遠くの出来事に思えた。そこには自分は出演して居ないのだと。
「へへへ、何となくなの。だからすぐ帰ります。」
「そんな事言わずに、ゆっくりしていきなよ。」
どうしてそんなこと言うのかという思いが一瞬よぎった後、そんな事を思った
自分がなんだか嫌らしくなって火乃紀はいたたまれなかった。
「火乃紀さん、怒らないで。本当に御免なさい。」
そう言われて火乃紀は、はっとした。そして恐る恐る聞いてみる。
「あなた、もしかして紗孔羅と同じ ...」
最後まで言わなくても蛍汰には火乃紀が何を言わんとしたのか判った。
「え? 何のこと?」
言ってから火乃紀は後悔したが今更遅い。
「ちょっと思ったことに先に返事された様な気がしたから。」
これでは迷惑だと思っていたと言う様な物ではないか。
火乃紀はますます自分が嫌になってきていた。
「いいえ。私に姉さんみたいな能力は無いわ。
 貧乏くじはみんな姉さんが引いてくれたから。」
「ごめん。私ったら。」
自分は誰に謝っているのだろう。紅絹思にか、それとも紗孔羅にか。
「いいの。どう考えても私ってお邪魔虫よね。正直に言います。姉さんが何時も
 話してた蛍汰さんと火乃紀さんの事を知りたかったの。だから。」
「私の事?」
興味もあったがちょっと怖くもあった。紗孔羅は自分の事を何と言っていたのだろう。
「うん。とっても優しくしてくれてたって。」
気恥ずかしさと居心地の悪さが身体の中に満ちて来た。何とも返事のしようがない。
「蛍汰さんも優しかったって。」
急に話を振られて蛍汰はあたふたしたが、それを見て笑っている紅絹思に
気付くと照れ隠しに頭を掻いた。

*

紅絹思が坂を降りていくと、場違いな程に大きなトレーラーが待っていた。
助手席に乗り込んだ紅絹思を阿嘉松社長が迎える。
「おぅ、どうだった? 奴らの城はよ。」
何だか他人の秘密を覗いてきた結果を知りたがっている様な口振りだった。
「大失敗。止めとけばよかったかも。」
元気の無い娘の返事に阿嘉松社長は急に父親に戻る。
「どうした。奴らに何か言われたのか? 蛍汰も火乃紀もイイ奴らなんだが。」
「そうじゃないの。じ、こ、け、ん、お。」
「あぁん?」
「何だかイイ子ちゃんぶっちゃったかなぁって。」
「お前ぇはよ、そういう事を気にし過ぎなんだよ。」
「そういう事って?」
「他人から自分がどう見えるかって事をよ。自然にしてりゃいいのさ。」
「姉さんも同じ様な事言ってた。」
「何て?」
「人から良く見られようとすると、とても苦しいのよって。」
「そうか。」
それから二人とも黙って、赤くなり始めた空を見上げた。
「あんっ!もう止め止め。ね、何か美味しい物食べに行こ。」
「おっしゃ。」
図体に似合わぬ滑らかなエンジン音を残してトレーラーは走り去って行った。

[六]

ここは何処だろうか。足下に霧が纏わりついて歩きづらい。
周りにも何も無い。ただ、そこら中に気配が濃密に漂っている。
誰も居ないが、大勢が居る。声はしないが、騒がしい。
まただ。暫く無かったのに。
きぃきぃ、きぃきぃ。
耳の後ろで音がする。
爪が浮き上がって剥がれだす。それを止めようとして手を強く握る。
握った手の隙間から生温い液体が溢れて滴った。
夢だと判っているのだが、どうしたら抜け出せるのか。
吐きそうだ。
もんどり打った途端にベッドから転げ落ちて目が覚める。
汗でパジャマが粘ついて縛られた様に動きづらい。
はぁ。
深い溜息をつくと立ち上がってバスルームに行く。
シャワーを浴びて戻って来たが、目が冴えて眠れなくなっていた。
大失敗。そう口の中で呟く。
気乗りはしなかったが夢の意味を考えて見ようかと思った。
その瞬間。
見えた。思い出したのではなく、見えたのだ。
慌てて電話を取る。どうせ家には戻っていまい。
工場の仮眠室の直通番号に掛ける。
十回程の呼び出しで寝ぼけた声が応じた。
「...誰だ、こんな時間に」
「私よ、すぐに迎えに来て!」
「何だって、どういうこったい?」
「いいから早く来てよ!緊急なの、表で待ってるからね。」
紅絹思は言い放つと勝手に電話を切った。
三十分程でマンションの外にアカマツ工業と書かれた軽自動車がやってきた。
「もう、何でデカイので来ないのよ。」
「納品で出ちまってんだよ。それより何だってんだ、若い娘がうろうろする
 時間じゃねぇだろ。」
「一人でうろうろして欲しくないでしょ、だから呼んだんじゃない。
 それともボーイフレンドにでも頼んだ方が良かったの?」
「何っ、居るのか? 何処の野郎だぁ?」
「居ないから父さん呼んだのよ。」
父親としては嬉しい様な情けない様な釈然としない気分だと思う。
「で、どうすりゃいいんだぁ?」
「鎌倉へ行って頂戴。蛍汰さんの所よ。」
「ああん?」
「道すがら話すから早く出して!」
阿嘉松社長は娘の剣幕に押されて車を発進させる。
軽自動車には不釣り合いな低い唸りをあげて二人を乗せた車が夜を行く。
でも、何でだろう。急に行かなくちゃと思ったのは。
ばたばたしている間に何を見たのか思い出せなくなっていた。
ただ、不安だけが雨雲の様に低く空に拡がっていった。

*

飯霧が白衣を脱いでパーカに袖を通していると、そこへ見知らぬ男が近づいて来た。
「失礼。割楽って人に会いたいんだが。」
はて、この男は何故自分に声を掛けたのだろう。自分と割楽の関係を知っているのか。
「どうやって此へ?」
もっともな質問であったろう。なにしろ此は彼等のチームのみが入居している
専用のビルだ。少なくとも第三者が気軽に入ってこれる場所ではない。
「行けと言われたから来た。用が無いなら帰るが。」
どうやら割楽の言っていた遠くから来る技術者という奴らしい。
だが、随分と早い到着ではないか。あれからまだ二十四時間も経っていない。
「判りました。こちらへ。」
研究室を出ると飯霧は、まっすぐに廊下を行き突き当たりのドアを叩く。
返事を待ってドアを開けると案内するまでもなく男が中に入った。
「おやおや。早かったですね。」
割楽もまた同じような感想を抱いた様だ。
「私、割楽と言います。よろしく。」
「知ってる。俺は骸寺だ。」
自分の部下だったら今すぐにも左遷してやると割楽は思う。
「用件は聞いている。今夜だ。」
「はぁ?」
「今夜動くぞ。いや、もう動いている。」
「やれやれ。忙しいねまったく。飯霧くん、すまないが帰らないでくれ。」
ドアを閉めかけていた飯霧は呼び止められて憮然とした。次の一言は判っている。
「残業頼むよ。」
糞ったれ。声を出さずに毒づく。
「で、今夜動くって何処でかな。」
「目星ぐらい付けてないのか?」
「無い事もないんですけどね。」
「ならばそこだ。逃がしたくないなら急げ。」
割楽は飯霧に何やら合図を送った。彼が先に部屋を出て、その後を割楽と骸寺が続く。
行った先は地下の駐車場だった。黒塗のセダンの運転席に飯霧、助手席に割楽が乗る。
すでに後部座席には、ずっとそこに居た様な顔で骸寺が坐っていた。
「さ、行っちゃって。」
割楽の指示に飯霧は、さも面倒だと言わんばかりに聞き返す。
「どちらへですか。」
「鎌倉。」
「現地の追跡班に連絡をしたほうが良いのでは?」
「もうしたよ。」
「で、何と?」
「応答無し。」
「ならば行き先は変更だ。」
骸寺が言う。
「と言うと?」
「今から行っても間に合わん。次の舞台は湾岸部の元関係企業の工場だ。」
「だってさ。」
割楽は飯霧に手をひらひらさせて、行けと指示した。
飯霧は大袈裟に呆れたという仕草をすると車を発進させた。
音は殆どしない。電気自動車なのである。割楽が言う。
「自然界に最大の圧力を掛けている人間が、自然に優しいとかぬかして
 電気自動車を走らせると。笑っちゃうよね。」
「仕方ないでしょう。会社の方針ですから。」
「うちは建設会社なんだからさぁ、もともと。
 バババァ〜んと走っちゃえばいいのに。」
「その建設会社の会長たる貴方が言う事ですか。」
「それは単なる名目さ。他にも某研究機関の調査主任という肩書もあるよ。」
「それを仰有るなら、建設会社という我々の入れ物からして名目だけの物です。」
「その通りだね、営業しない営業部長君。」
「こりゃどうも。」
「素人漫談はそのくらいにして。一つ確認しておきたいのだが。」
黙って聞いていた骸寺が口を開いた。
「何かな?」
「逃げた実験体の処理にあたって万が一、目撃者が居た場合は?」
「サ、ヨ、ヲ、ナ、ラ。」
割楽はそう言うと微笑みながら自分の首のあたりで人指し指を横に滑らせた。
「判った。」
それだけ言うと骸寺も割楽も、そして飯霧も口を閉じた。
もう一つの懸案事項について割楽は敢えて骸寺には告げなかった。
放って置いても向こうから来るだろうし、彼に実力があれば何とかするだろう。
出来なければそれまでの事だ。どうせ彼は自分の手駒ではないのだ。
音のしない漆黒のセダンは闇の一部となって、するすると街を抜けて行った。

*

普段、蛍汰は一度眠ってしまうと朝まで起きることはない。寝付き良く、
そして寝起きは悪かった。ところがその晩、珍しく夜中に目が覚めた。
だが確かに目覚めているにもかかわらず、何かに身体を縛られて居る、
そんな感じだった。それを振りほどく様に力任せに起き上がる。
思い出せはしないが何か悪い夢でも見ていたのかも知れない。
水でも飲んでこようと思い寝室を出てキッチンへ降りていく。
何となく通りすがりにリビングに目をやると窓辺に火乃紀が立っていた。
脅かさない様に小声で呼びかけてから近づいた。
「どうした。火乃紀。」
「うん。何だか寝付けないの。」
「そっか。俺も急に目が覚めちゃってさ。」
そうして二人で窓の外を見ていた。その内に二人の視線は窓の外から
互いの瞳に移って行った。そしてどちらとも無く抱き寄せて。
サクサク、サクサク。
竹林特有の厚く積もった竹の皮を踏む音が二人の耳を打った。
はっとして互いの身体を離した蛍汰と火乃紀は揃って窓の外を見る。
何も見えない。少なくとも目では見えない。だが。
「火乃紀、やべぇ。逃げるぞ。」
「え、何で? 何か見えるの?」
「見えないから逃げるんだ。」
意味は判らないが、蛍汰の緊張が伝わり火乃紀は頷く。
二人とも短パンにTシャツという姿で、この時季の夜中に外に出る格好では
無かったので慌てて上着だけは羽織った。
玄関から外に出ると、物音がもっとはっきりと聞こえてきた。
家の裏手からの様である。それも一つ以上の何かが蠢いている感じだった。
同じだ、と蛍汰は思った。周りが暗く霞んでいる。そして音のする方だけが
はっきりと見えていた。何故だろうとは思うが、あまり考えているわけにもいかない。
「とにかく町の方へ。」
そう言うと蛍汰は火乃紀の手を引いて家の前の坂道を下り始める。
しぅるしぅる、しぅるしぅる。
しかし物音の方が素早かった。既に手の届きそうな程に近くから音がする。
何かに足を払われて、二人は同時に倒れ込んだ。
「痛ってぇ。火乃紀、大丈夫か。」
「うん、平気。蛍ちゃんは?」
立ち上がりかけた二人の目に何物かの影が見えた。坂の上、ほんの数メートル先。
道の両側が竹林であったため、ただでさえ薄暗くて姿は良く判らない。
判ったのは、それが何かを投げた、いや伸ばして来た事だけだ。
「きゃっ」
火乃紀が小さな叫びを上げたのと同時だった。
シャッ。
風を斬るような音がした。
ぼた、ぼた。
何か重い物が地面に落ちて二人の脇を転げ落ちて行った。

たって。はやくにげてね。

聞き覚えのある声がした。蛍汰は火乃紀の方を見る。
彼女にも聞こえた様だった。二人の前に、すっと立つ細い影が在った。
一瞬だけ、その影は二人を振り向くと坂の上に向かって疾走した。
蛍汰と火乃紀は、再び坂を下り始める。
土の道が舗装された道路に繋がる所まで降りた途端、二人を強烈な灯りが照らした。
「何だか知らねぇが、乗れや!」
「阿嘉松さん!」
「急いで!」
助手席から身をかがめた紅絹思が叫んでいる。
蛍汰は後部座席のドアを開けると火乃紀を押し込んでから自分も飛び込む。
その途端に強烈な力で二人はシートに押し付けられた。
エンジンが悲鳴を上げている。車が国道に出て暫くするとやっと蛍汰が言った。
「助かりましたよ。でも、どうして?」
「コイツがよ、何か起こるって言いやがるから。」
助手席から後ろを覗いた紅絹思が照れ臭そうに笑う。
「でも、紅絹思ちゃん、そういうの判らないんじゃ?」
蛍汰が聞かなければ火乃紀が同じ質問をしただろう。
「うん。判らないはずなんだけど。何故かな。そう、夢を見たの。」
「夢?」
今度は火乃紀が不思議そうに尋ねた。
「うん、凄く気持ちの悪い夢。目が覚めたら、蛍汰さんと火乃紀さんの
 所に急がなくちゃって判ったの。もしかしたら ...」
「もしかしたら?」
「姉さんかも。」
皆が夫々に思いを馳せて、沈黙が足下から溢れ出す。
ふと思い出して蛍汰は車窓の外を見る。街灯が信じがたい速さで流れ去る。
チャンディは大丈夫だろうか。また置き去りにした形になってしまった事が
ちくちくと心を刺した

[七]

アカマツ工業のシャッターは蛍汰達を乗せた車が近づくとスルスルと開いた。
そして後ろでシャッターが閉まるのを確認してから、やっと四人は車を降りた。
「そいつらぁ、いったい何物なんだ?」
「判りませんよ。そんなこと。」
「だが、この前に電車の車内に現れた奴と同じモノなんだろうな。」
「ええ、多分。」
「大丈夫だよ。あの娘、何てったっけ。強ぇみていだし。」
蛍汰は余計に情けなくなって自虐的な笑みを浮かべる。
「ま、こんな所に居るのも何だな。奥に入って休もうぜ。」
阿嘉松社長はそう言って皆を事務室等がある側の建物に連れていく。
こんな時に覚醒人が在ったら。天井の高い作業場が今日は妙に寒々しい。
休憩室に入るとそこには蛍汰の知らぬ間にパソコンが運び込まれていた。
パソコン本体よりも大きなボックスから黄色や青色の細いケーブルが十数本
伸びており、それらは天井の羽目板をずらした隙間から天井裏へ消えている。
「何すか、コレ?」
言いながらも蛍汰は既にボックスの裏側やらモニターやらを弄りまわして居る。
「工場内のな、セキュリティ関連のセンサー情報を此へ集めてあるんだよ。」
阿嘉松社長がそういってキーボードを操作すると、モニターには工場の全景が
平面図に展開されて表示された。一呼吸置いてから事務棟の二階にぼんやりと
赤い点が点る。一箇所に全員集まっている所為か、その光点はもぞもぞと動く。
ささやかながらこれで不意打ちは食らわなくて済むという訳だった。
紅絹思が紅茶をいれてくれたので少しだけ空気が落ち着いた。

*

着の身着のままで飛び出してきた為、蛍汰は今が何時なのか判らなかった。
火乃紀は彼の肩にもたれて眠っている。紅絹思も随分前に向こうのソファーの
陰にゆるゆると倒れ込んでから姿が見えない。
阿嘉松社長がすぐ戻ると言って出ていったのは、どのくらい前だったか。
そろそろ夜明けではないのだろうか。だが窓の外に陽の気配は感じない。
身体を動かしてしまったか、火乃紀が気のない声で言った。
「蛍ちゃん ...ずっと起きてたの?」
「悪りぃ、起こしちまったか。」
「阿嘉松さんは ...捜し物なの?」
蛍汰も、ぼんやりし始めていたので意味を解するのに時間がかかる。
火乃紀はセキュリティモニターを見て言っているのだった。
工場の隅、倉庫に通じる通路のあたりに動く点が一つある。
赤い点がゆっくりと、こちらにやってくる。
途中で、何故か点は二つに分かれた。
正確に言うと、点の通った後に点が一つ残ったのだった。
「何、これ。」
「さあ、さっぱり。」
動いたままの点は見る間に事務棟に入ると階段を昇ってきた。
「阿嘉松さん、よね?」
「...多分。」
そう言いながらも蛍汰は火乃紀に部屋の奥へ移るよう目配せすると
自分はそっとドアに近づいた。そして廊下の物音をうかがう。
かちゃかちゃ、かちゃかちゃ。
金属が触れ合う音がする。
蛍汰は息を詰めてドアを細目に開けようとする。
ドアは向こうから押された。
「うぁーーーーっ!」
「何だなんだナンダ!」
涙目になった蛍汰がへらへらと笑っていた。
ふぅっ、と火乃紀は短い溜息を洩らした。
「そんなに驚かなくてもいいだろうが。」
火乃紀がモニターを指差して言う。
「これ、壊れてません?」
「そんなはずは無ぇぜ。全部テストしてある。」
阿嘉松社長はそう言うとモニターを見た。
「何じゃ、こりゃ?」
火乃紀は、まだへらへらしている蛍汰に代わって
先程までにモニター上で見られた出来事を話した。
「俺はずっと一人だし、当然何も見ていねぇ。するとコレはセンサーの残像か?」
阿嘉松社長がモニターを指でポコポコッと弾く。
赤い点が、のろのろと動き出した。
「あっ!」
三人が同時に声を上げる。
キーボードから何かを入力していた阿嘉松社長は振り向いて言った。
「マジだぜ。」
そして先程持ってきた鉄パイプを蛍汰に渡した。よく見るとパイプには
途中に切れ目があって、その部分を捻って回せる様になっている。
「矢印の付いてる方が前だ。捻ると ..」
かちっ、音がしてパイプの先にもやもやと火が点る。
蛍汰も同じようにやってみるが、捻り過ぎた。火が床まで伸びで蛍汰自身と
火乃紀が驚いて跳び退く。
「気をつけろよ。目一杯捻ると横向きで3メートルまで届く。上も同様。
 ただし、下に向けた時には目一杯にはすんなよ。火がUターンするぜ。」
「何だか怖い。」
「でも多少は心強いかもな。」
「こんな事も在ろうかと、ってんなら良かったんだが。生憎とそれは
 空き地の雑草焼用のバーナーで、"丸焼きスティック" ってんだよ。」
「こんなの卸してましたっけ?」
「いや。最大火炎が長すぎて消防からクレーム付いちまった。」
蛍汰と火乃紀は、やっぱりと思っていた。
でも、家では庭の雑草取りの役に立つかもしれない。
「最大火力を続けると十秒ぐらいしか持たねぇから気をつけろよ。」
「了解。」

*

アカマツ工業は埋立地のもっとも奥まった位置、すなわち海沿いに在った。
敷地は海沿いの道路と防波堤に面した角地であり残りの二辺は他の工場の敷地だった。
一本だけ通じた道路が幹線道路と別れる場所から
然程遠くない位置に一台の車が停まっていた。
「動きませんね。」
「彼等が入ってからどのくらい経つかな。」
「四時間くらいでしょうか。」
「奴等の移動能力だと、もうそろそろ来るかな。」
後ろから骸寺が口を挾む。
「いや、その気になれば一時間も掛からないはずだろ。」
よく知っているじゃないかと思いながら割楽が答える。
「それは完全体の場合。今逃げてるのは亜生体。それに扱い易いように
 頭を悪くしてあるんでね。バカだからすぐには目標の移動には気付かない。」
「それでは肝心な商品として使えないだろう?」
「出来が良すぎると商売にならないんですよ。」
骸寺は、ふんっと鼻を鳴らして黙ってしまった。話の方向に興味は無いのだろう。
プップッ、プップッ。
小さな音がしてダッシュボードの下にある赤いランプが点滅する。
飯霧は手を伸ばすと受話器を取って短く応じた。
「追跡班からです。残り全部が来てます。」
「何匹だ?」
骸寺が聞く。
「三匹かな。」
割楽は次の質問を待ち受けたが、骸寺はそれ以上は何も言わなかった。
割楽は考える。こいつは全部で四匹逃げたことを知らされて居ないのか。
それとも既に一匹死んでいる事までお見通しなのか。
骸寺はドアを開けると、まっすぐに歩き始めた。
「あ、ちょっと待った」
割楽の声に骸寺は振り向くと言った。
「何だ。」
「車のトランクに "いいもの" が在りますから。」
割楽は車を降りると骸寺を伴って後ろのトランクルームを開いた。
紙の箱で六本を一まとめにした派手な缶がそこにあった。
有名な輸入物の缶ビールだった。
「仕事中はまずいだろう。」
冗談なのか本気なのか判らない言い方だったので、
割楽は何と受け答えするか迷ってしまった。だが冗談ではないらしい。
「使い方はご存知でしょう。」
そう言って一本取り出すと骸寺に渡す。
受け取った途端に彼はそれが何かを理解した様子だった。
「これで目撃者にサヨナラしろって事か?」
「他のものも含めて綺麗にしておいて下さいな。」
「まずく無いのか、日本でこれは。」
「大丈夫です。あの工場はヤバイ品が元から色々ありますから。」
もうそれ以上骸寺は何も言わず、缶ビールを三本ほど掴むと
コートのポケットに突っ込んで、行き止まりの道を奥へと進んでいった。
充分に骸寺との距離が離れると割楽は車に戻った。
待ち構えていた様に飯霧が話しかけてくる。
「追跡班に回収指示出しますか?」
「いや、お手並み拝見と行こうよ。」
「いいんですか?後で本部から恩着せがましく言われますよ。」
「構わんよ。雑用は我々の仕事じゃないさ。」
この人は今回の事を自分達の失敗とは思っていないらしい。
飯霧は何時まで経っても割楽の考えが判らないと思った。
「さ、行こうか。」
「はぁ?」
「ここからじゃ、よく見えない。つまらないだろ?」
正直なところ冗談じゃ無いと言いたかったが、研究者としては亜生体の
屋外での活動を見ておきたいという気持ちもあった。
飯霧は車をゆっくりと埋立地の奥へと進めた。

*

阿嘉松社長と蛍汰はバーナーを構えて廊下に立っていた。
直前までのセキュリティモニタの表示から、何かがこの廊下の端にある階段を
昇り始めたことは間違いなかった。今二人はその何かがやってくるであろう
方向に目を凝らしていた。廊下の灯りは点って居るのだが心なしか暗い。
休憩室の扉は開け放たれていた。蛍汰が中に声を掛ける。
「火乃紀、今何処まで来てる?」
モニターを見ているはずの火乃紀に相手の位置を尋ねる。
「判らないよ。消えちゃったの。」
「そんなはずは無ぇ。」
阿嘉松社長が休憩室に駆け込み、幾つかの操作を行う。
蛍汰も扉の内側まで戻っていた。
「どういうこった?」
モニターには確かに何も映って居なかった。
その時、少し前に目覚めていた紅絹思が叫んだ。
「何か来るよ!」
殆ど同時にモニターに再び点が現れていたのだが、誰もそれを見ては居なかった。
廊下から窓ガラスが割れる音が響いて来たからだった。
外に面した窓から廊下に何かが飛び込んで来たのである。
蛍汰が音のする方を見ると、そこには雑に巻いた毛糸玉の様な物があった。
大きさはバレーボール位だったが見る間に膨れていくのが判る。
膨れるにつれて透き間が増えていくので、どうやらそれは解けているらしい。
「ブチかませ!」
阿嘉松社長の声に我に返った蛍汰はバーナーを思いっきり捻った。
廊下をオレンジの炎が奔り、毛糸玉を舐める。
きぃきぃ、きぃきぃ。
鼠の様な声を上げて、それは啼いた。だが外見には変化は見られない。
「こん畜生っ!」
蛍汰は声を絞り出して自分を鼓舞すると、それに向かって近づいた。
「おぃ!」
阿嘉松社長は廊下から休憩室の火乃紀と紅絹思を呼んだ。
「効いて無ぇ、ずらかるぞ。来い!」
火乃紀が紅絹思を連れて廊下の反対側に駆け出すと、阿嘉松社長は蛍汰に言った。
「もういい!蛍汰も来るんだ!」
蛍汰はそのまま少しだけ後退ると踵を反して走り出した。
しゅるしゅる。
それは炎が途切れると待っていた様に触手を伸ばして来た。
蛍汰が走りながら廊下に在った段ボール箱を投げ付けるが
触手は箱を何もそこに無いかのごとく突き抜けて迫ってきた。
蛍汰が廊下の突き当たりを右に曲がると、
そこに待っていた阿嘉松社長がバーナーを捻った。
蛍汰を追って廊下を曲がった触手は炎に触れると
一瞬戸惑った様に動きを止めた。
その隙に二人は火乃紀と紅絹思を追って階段を掛け下った。

*

骸寺が阿嘉松工業の正面に立ったとき、工場部分のシャッターの一つには
刃物で切った様に綺麗な卵型の穴がぽっかりと口を開いていた。
刳り貫かれたシャッターの金属版は工場の中側に落ちている。
骸寺はその穴を注意深く伺った。そして何者の気配も無いことを確認すると
そっと中に入る。照明が落ちていて、そこは屋外よりも暗かった。
だが、空気がその空間の広さを骸寺に伝えていた。慎重に奥へと歩を進める。
既に目は闇に馴染んでいた。工作機械の脇を抜けると別のシャッターが在った。
見たところでは先程の様な穴は開いていない。
シャッターに隣接した防火扉を引くと中から、ふぅと風が吹いてくる。
風圧で扉が開いたままになっていたが、骸寺は構わずに進んだ。
部屋の中程の所で、天井の方から何かが音もなく降ってきた。
骸寺がさっと避けると、今し方彼が居た場所にもぞもぞと蠢くものが在る。
ああ、これか。
一人納得している骸寺に向かって、それは形を微妙に変えながら近づいてきた。
恐らくは触手であろうと思われる紐状のものが数本伸びてきたが
彼はそれを弾き返した。それは何の表情も啼き声も上げはしないが
怯んだように感じられた。
骸寺は相手の動きに構わずにそれとの距離を縮めた。
そして手でそれの表面を薙ぎ払っていくと、段々とそれの形が小さくなっていった。
やがて中心に小さな目の様な、濡れた球体が現れると骸寺はそれを掴み上げた。
きき、ききき。
骸寺が力を込めると、それは何処にも口が無いのに啼いた。
単に軋んだだけだったのかもしれない。
ぱちっ。
コップに熱湯を注いだ時の様な音を立てて、それは弾けた。
紐状のものが床に小さな山を築いたが、もう動くことは無かった。

*

事務室がある建物の一階を突っ切って、蛍汰達は工場の建物に囲まれた
敷地内の中庭にあたる空き地に出ていた。
途中であの「何か」の下をくぐり抜けた形になっているはずだった。
微かではあるが、夜空の明るさが辺りを照らしている。
だがそれだけでは不安なのか、蛍汰がバーナーを点火して小さな灯りを灯す。
「阿嘉松さん、どうします?」
「どうって、そりゃ表に ...」
そう言った阿嘉松社長は顔を出口方向に向けると同時に声を詰まらせた。
蛍汰、火乃紀、そして紅絹思が続いて同じ方を見る。
目が、在った。
蛍汰の灯す炎を反射して、ゆらゆらと燃える目がこちらを見詰めている。
火乃紀と紅絹思が思わず蛍汰の腕を左右から掴んだ。
正直なところ、蛍汰も誰かの腕を掴みたいと思っていたのだが。
阿嘉松社長がバーナーを威嚇の意味を込めて大きめに灯す。
目を持った物の大まかな姿がぼんやりと浮かんできた。
それは立っていた。二本の足で。人なのか。
「誰だぁ?」
返事は無かった。代わりに数歩近づいて来る。
返事がないのも当然だった。口が無い。鼻も耳らしきものも無い。
ビニールで作ったおかしなシルエットの人形に目だけを付けた様なモノ。
それが歩いてきた。
くふくふ、くふくふ。
それが何か音を発てている。喉が鳴っているらしい。
蛍汰には何故かそれが襲ってくる様には思えなかった。
理由は判らない。ただ、何かを話そうとしている様に感じたのだった。
「蛍ちゃん、あれって。」
火乃紀が同じことを思ったのだと蛍汰が知ったのは後日の事である。
「この野郎っ!」
阿嘉松社長がバーナーを最大にして浴びせ掛ける。
だが、それはまるで何も起こっていない様にそこに止まっていた。
「効いて無いっすよ!」
「判ってる。早く退がれ!」
言いながら阿嘉松社長自身もじりじりと後退った。
それもまたついてくるかと見えた、その時だった。
それがふいと後ろを振り向いた。音もなく身体全体が回れ右をする。
あっけにとられた阿嘉松社長はバーナーの火を弱めるのも忘れて眺めた。
その所為でバーナーの炎はゆるゆると弱まり、最早微かな残り火だけになっていた。
それが前進を、すなわちもと来た方への移動を始めると同時に
その先の闇から何かが飛んできたのがおぼろげに見てとれた。
何故ならそれは光を放っていたから。
サクッ。
細い光がそれの頭部に見える部分、二つの目の丁度真ん中に突き刺さる。
それは突き刺さった何かを引き抜こうとするかの様に首を左右に激しく降り出す。
だが刺さったもの抜けず、却ってするするとそれの中に潜っていった。
やがてそれの居る辺りから蛍汰達にも聞こえる耳障りな高音が響いてきた。
思わず耳を塞ぐ蛍汰達だったが、その音は頭に直接送り込まれるように
ますます強く鳴り響いた。そして。
へぇん、へぇん。
動物のわななきともとれる声を上げて、それがばったりと倒れた。
蛍汰達の見ている前で、それは薄暗い地面の上に厚みを感じさせずに積もった。
見る間にもそれは色を失い、最後に萎んだボールの様な物が残った。
それには一本のナイフが串の様にまっすぐに通っていたのだった。

*

「まぁ、こんなものだろうな。」
闇の奥から声がして、蛍汰の灯す炎の届く範囲に一人の男が歩み出た。
「災難だったな。」
その男、骸寺が誰にとも無く言った。
「誰だ、お前ぇさんは?」
阿嘉松社長の問いかけ。骸寺はそれには答えずに続けた。
「だが、災難はこれで終じゃ無い。」
骸寺はそう言うとコートの前身頃をずらして鈍く光るモノを取り出した。
B級アクション映画のワンシーン、それが火乃紀の感想だった。
「俺達を殺そうってのか?」
平静を装っているが、阿嘉松社長の声は微かに語尾が上がっている。
「平たく言うとそうだ。」
「ど、どういう訳でだよっ!」
蛍汰が吐き出した声には、しかし骸寺は答えなかった。
骸寺が右手をまっすぐに蛍汰達に向けたその時だ。
「逃げろ!」
蛍汰は火乃紀と紅絹思にそう叫ぶと、バーナーの炎を最大にして
骸寺に向けていた。炎がまっすぐに骸寺に向かって伸びたが、
彼は気にせずに引き金を絞っていった。
おかしな事に蛍汰にはバーナーの炎が相手の眼前で固まった様に見えた。
たたたん。
ミリタリーマニアの蛍汰には、それが何を意味する音なのかが判った。
この一瞬にも、火乃紀と紅絹思が逃げ切れていれば良いが。
燃料が切れて蛍汰のバーナーの炎が萎んでいき、急に視界が暗くなった。
その為にすぐには辺りの様子が判らない。
蛍汰は自分の身体に神経を集中した。何処に弾を受けただろうか。
何処も痛みを感じない為、蛍汰は間もなく死ぬのだと思った。

もしもし、ひーろーさん。

「はぁ?」
蛍汰は思わず間抜けな声を上げてしまう。

どこもけがなんかしてないんだから、はやくにげてよ。

情況がやっと飲み込めた蛍汰は慌てて火乃紀達を追った。
阿嘉松社長の後ろ姿が辛うじて見えている方向に向かって走る。
「今日もかっちょエエぜっ!」
それは蛍汰の、その時の精一杯の感謝の言葉だった。

*

骸寺の前に立ちはだかったのは完全被甲状態のチャンディ=ブッダだった。
「ほほう。」
彼はタイプDについての知識を持っていたので然程驚きはしなかったが
それでも初めて見る実物に興味を覚えた。戦う者としての興味を。
だが、チャンディは相手にのんびりと自分を眺める余裕を与えたりはしない。
骸寺が立っていた場所、正確には彼の頭部があった空間を最初の一閃が切り裂く。
二度三度とかわした後、こんどは骸寺の蹴りがチャンディの脇腹を捉えた。
一瞬、くの字に折れ曲がったチャンディの身体は、しかし数メートルの距離を
おいた場所に降り立つと再び態勢を整えた。
骸寺は心の中で舌打ちをした。彼の知識ではタイプDの腹部は甲羅の途切れた
弱点のはずだった。だが、今目の前にいる相手の腹部は初めには無かったはずの
鱗状の甲羅に被われていた。また情報の漏れか。或いは。
だが仮にそうだとしても、彼は別にそれを驚異と感じてはいない。
チャンディは、まるで「それだけ?」とでも言いたげに、そこに立っていた。
効果は無いだろう。そう思いつつ、骸寺は先程から手にしたままの
オートマチックを眼前の相手に向かって二射した。
三点バーストでの二射、都合六発の弾丸が真っ直にチャンディの
(仮に普通の人間と同じなら)急所となるはずの場所へと突き進んだ。
パタパタ、パタパタ。
樹脂タイル貼りの床をハンマーで叩いたような、情けない音を立てて
弾丸はすべて地面に落ちていった。
脇腹と同様に攻撃する前は剥き出しだったはずの顔面は今は見えなくなっている。
感心している間もなく、チャンディの姿が一瞬に欠き消える。
だが骸寺には聞こえていた。空気を切り裂く気配、殺気が。
チャンディの鋭い爪は骸寺の眉間の数センチ手前の空間で高速度写真の様に
一度完全に静止した。そして次の瞬間にはチャンディの身体は二十メートルは
離れている建物の壁に激突した。チャンディの身体より二まわり大きい窪みが
出来たが穴は開かなかった。そして壁の手前にぱったりと倒れたチャンディの
身体の上に、ぱらぱらとコンクリートの破片が降り注いだ。
暫く待ってみる。敢えて近づいたりはしない。変化無し。
骸寺はポケットから "缶ビール" を探り出すとプルタブを引いた。
そして一呼吸置いてからチャンディに向かって投げる。
地面に落ちてから数秒後、缶が炸裂して中に詰まっていた粘度の高い
液体火薬が辺りに飛び散り、チャンディの身体をも被った。
空気に触れた途端にそれらは急激に酸化し熱を帯び、程なく業火となる。
チャンディの姿はあっと言う間に骸寺の視界から消えた。
呆気ない。そんな感想を抱いた彼が蛍汰達を追おうとして歩きだしたその時だ。
目の端で炎の壁が変化を見せた。骸寺は立ち止まって炎に向き直る。
橙色だった炎が赤みを帯び、そして黒い煙をたなびかせた。
だが全ての炎が同じ様になったわけでは無かった。周りは相変わらず
肌を焦がす程に白く燃えていた。その中心付近だけが切り取った様に黒ずんでいる。
そしてその中心には最初から何も無かった様にチャンディが立っていた。
いや、それだけでは無い。もう一つの影が寄り添う様に傍に付いて居た。
ずっと小さな影が。
不完全燃焼か、それともこの程度の代物だったのか。
だがそのどちらでも無いことはすぐに判った。
二つの影の後ろの炎が薄いベールを通して見るようにぼんやりとしている。
何かの力が炎を押し退けている様でもあるが、違う。手前の空間で燻り
立ち上る黒煙が何の物理的力も受けていない事が、それでは説明出来ない。
骸寺は自分の知っている限りの知識を走査した。こんな事の出来る能力者とは。
これは炎を直接制御しているのだ。燃料の酸化反応を抑制したに違いない。
しかし。そんなはずは無い。
物質の化学変化に直接干渉できる程の強力なダウジング能力。
この能力を持った者は過去に一人だけ。そして既に、この世には亡いはずだった。
少なくとも骸寺の知っている範囲では。
「まさか、本部のリサーチに掛からなかった人材なのか ...」
一瞬の戸惑いが骸寺の命運を決した。
彼が意識を目の前の事象に戻した時には、
既にチャンディの強力な一撃が彼の上腕部の肉に食い込んでいた。
胴体ごと真っ二つにされる事を避ける為には腕は諦めなければならなかった。
人間にしては驚異的とも言える跳躍で、骸寺はもう一つの影の傍に降り立つ。
だが、そこには既に何も無く、誰も居なかった。骸寺は二度目の愚を犯した。
そこに在るのはただ、無理矢理に燃焼を中断された焼夷榴弾の液体火薬の残渣だけ。
そして燃焼を押さえていたチカラを失ったそれらは、すぐに本性を現す。
一気に最高潮に達した高熱の炎は骸寺がまだ隠し持っていた残りの "缶ビール" の
総てをも活性化させた。彼が最後に見たのは赤を越えて白色の光を放つ
熱の壁だった。
声をあげる間もなく、一人の人間が一握りの灰になっていった。

*

蛍汰達は工場の最も海寄りの一画に出ていた。くぐってきた扉は鍵を閉めたが
あまり長くは持たないだろう。
阿嘉松社長が外に出るために搬出入用の巨大な扉を開こうとしたが、
電源が落ちていてまるで動く気配が無い。
「おう、蛍汰、力貸せや。」
「あ、はいはい。」
扉脇の小さなボックスを開けると中に四角い軸が突出している。
そこに阿嘉松社長が何処からか持ってきたハンドルを取り付ける。
蛍汰は渡されたもう一本のハンドルを扉を挾んで反対側のボックスに取り付けると
互いにそれを回した。長いこと手動では開いたことが無いらしく
それらはとても動きが悪く重かった。
「阿嘉松さん。」
火乃紀が作業の妨げにならない様に、そっと声を掛けた。
「なぁ、ん、だぁ」
息を継ぎながらであったが阿嘉松社長は手を止めずに聞き返した。
扉はやっと十センチ程の透き間を作りつつあった。
「この扉の向こうって、いきなり海なんじゃ?」
扉がやたらに重いのは、潮風の為にレールが錆びている所為でもあるのだ。
「大丈夫だよ。三十センチぐらいはある。」
何が在るのか聞き返したいところだったのだが、それどころでは無くなった。
紅絹思が火乃紀の袖を引いて後ろを見るようにと身振りで示している。
火乃紀が後ろの殺風景な倉庫の片隅に視線を向けると、
そこに在るものが目に入った。
さっきまでは間違いなく、そこには何も無かった。
自分達がその辺りを通って来たのだから。
「蛍ちゃんっ!」
火乃紀の声に蛍汰が、そして阿嘉松社長が振り向く。
「何だっ、来たのか!」
その声に弾かれた様に蛍汰は手動ハンドルを必死に回した。
阿嘉松社長もそれに続き、扉は急速にその透き間を広げていった。
そして人が通るのに充分なだけ開いたと誰もが思った、その時だった。
ぶっばばっ。
紙袋を破裂させたような、しかしそれよりも遥かに大きな音がして
扉の向こうから黒い塊が中に押し入って来た。それは扉の透き間よりも
大きかったため扉に挟まるような形で引っかかり、
ぐねぐねとその身体をくねらせた。
「きゃぁ」
紅絹思が真っ先に叫んだので、火乃紀は逆に冷静になっていた。
蛍汰は二つの怪しい影を結んだ線の向こう側に居たので、
こちらに来るタイミングが計れない様子だった。
火乃紀は紅絹思を庇いつつ、辺りを見回した。そして取りあえず手近にあった
工具箱からバールを拾い上げた。重い。しかし、今はその重さが却って心強い。
そんな中、最初に動いたのは阿嘉松社長だった。
彼は火乃紀と紅絹思の傍に立つと火乃紀がバールを取り出した工具箱から
スパナの組を取り出し大きな方から順番に投げ付けた。
「蛍汰、こっちに気やがれっ!」
その声に、こちらに駆け出しかけたのだが、黒い塊に投げ付けたスパナの
幾つかが蛍汰の眼前を跳ねて横切ったので気勢をそがれてしまった。
「何してんのよ、蛍ちゃん。」
その間にも黒い塊は倉庫の中にずるずると這いずり込んでいた。
だが、まだその全体が見えていない事からして、それは思いの外大きいらしい。
蛍汰が再度タイミングを計ってこちらに来ようとした瞬間だった。
ずどずどっ、ずどっ。
何かが再び蛍汰の前を横切った。しかし今度は向きが逆で、倉庫の奥から
黒い塊に向かって、おまけに目にも留まらぬ速さでだった。
何かが横切ったのは音と、黒い塊に何かが食い込んだ様子から判った事だ。
皆が一斉に黒い塊を見、そしてもう一方の小さな影を見た。

くすくす。

蛍汰達は顔を見合わせる。誰か、笑ったか?
ぎぇぃぃぃぃぃぃぃ。
再び、蛍汰達は黒い塊の方を見た。だが、その姿は先程までとはまるで違った。
「ち、縮んでいる ...」
そう、確かにそれは縮んでいた。もう既に半分以下の大きさにしか見えない。
とてもではないが扉に詰まるサイズでは無かった。
そして見ている間にもどんどんと縮んでいるのだった。
誰も何も言わず、ただ黙ってその様子を惚けた様に見詰めた。
もうそれは声すら、声の様な物すら上げなかった。
それの大きさがテニスボール位の大きさになって初めて、
蛍汰達はそれが球状に縮んでいる事を知った。
その頃から、それは別の変化も見せていたのだが、
その事を最初に指摘したのは紅絹思だった。
「光ってるよ ...」
そのぼんやりとした光は、それが更に縮むにつれて輝きを増した。
恐らくピンポン玉位のサイズになった辺りから、眩しくて
見詰めている事が困難になり、大きさはよく判らなくなった。
だが確実に光の強さは増していき、遂に倉庫中を照らすほどになっていた。
突然に前触れもなく光が失われた時にも、蛍汰達はしばらくは残光の所為で
暗闇が戻ったことに気付かなかった。
「どうなっていやがるんだ。」
「蛍ちゃん?」
目が馴れないので、互いに姿が見えない。
「父さん、大丈夫。」
「ああ、お前も何とも無いな?」
「ええ。」
「蛍ちゃんてばっ」
火乃紀が声を大きくすると、やっと答が返った。
「大丈夫だよ。それより、何が在ったんだ。」
扉から差し込む夜空の明るさが白々と倉庫の床を照らした。
その中に何か小さな輝く物がある。蛍汰が傍に寄って、それを蹴った。
それは転がって阿嘉松社長の足下に辿り着くと、靴に当たって止まった。
「何じゃこりゃ?」
阿嘉松社長がそれを拾い上げようとしたが、ひょいと摘んですぐに放りだした。
「熱ぃぞ。」
「何すか、それ?」
「さぁ、ガラス玉の様な感じだがな、出来立てのよ。」
「そうだ、」
火乃紀が会話を遮った。
「あっちの影は?」
蛍汰達が倉庫の奥を振り向いた時には、もうそこには何も居なかった。

*

「会長、あれを ..」
「ん?」
飯霧に促されて割楽がフロントグラス越しに前方の薄闇に目を凝らすと、
そこには見知らぬ一人の少女が立っていた。
彼女の姿は闇の中に溶けて居るようでもあり
また浮かび上がって居るようにも見えた。
割楽はその少女の姿を見て、自分達の置かれた情況をすぐに理解した。
「出せ。」
「はぁ?」
「車を出すんだっ!」
そう叫びながら割楽はシフトレバーをドライブに入れると飯霧の足の上から
アクセルを踏み付けた。
ガンッ!
衝撃が二人を襲った。だが、予想に反して衝撃は車の側面からやってきた。
気が付くと車体は路面を大きく外れて堤防に激突していた。
割楽が再びアクセルを踏んだが車は最早何も答えはしなかった。
ややあって飯霧が頭を振りながら、呻く様に聞いてきた。
「一体、どうしたんですか? それにあの娘は?」
「飯霧君。」
割楽の持って回った言い方に飯霧は不安を覚えた。
「何ですか?」
「長いこと有難う。私の無理難題に付き合ってくれて。」
「どういう意味ですか、それは。」
「言葉通りの意味だよ。」
割楽の視線を追って、飯霧はルームミラーを見た。
先程、割楽が車をけしかけた相手、見知らぬ少女がゆっくりと近づいて来る。
最初は気付かなかったが、彼女の両手は人のそれとは違っていた。
身体には不釣り合いなほどに大きな鉤爪が薄暗い街灯の光の中に浮かんでいた。
「まさか、あれは ...」
「まぁ、そういう事さ。」
飯霧が次の言葉を継ぐ前に、車体が大きく揺らいだ。
そして彼女は確かに言ったのだ。

あんたたち ...

最後の言葉はよく聴き取れなかった。

[明]

別な敵の存在を否定できなかった蛍汰達は、結局は倉庫で夜明けを迎えた。
途中まで開いておいたままの扉の間から朝日が差し込んで来る頃には
どうやら一難は去ったらしいと誰もが理解した。
もっとも蛍汰達がその場を離れたのは、朝一番の社員が出社して
様子がおかしい工場内を見回っている姿を認めてからだったのだが。
その後、更に数人の社員を伴って阿嘉松社長と蛍汰が見回ったが
見つかったのはボロ雑巾の山の様な代物と、そして中庭の地面に
拡がった何かが燃えたような焦げ跡だけだった。

*

「もしも〜し。生きてますかぁ〜。」
何処からか聞こえる声に促されるように、割楽は目を開けた。
どうやら、地獄では無いらしい。ちょっとだらしなさそうな女性が
原付スクーターに跨ったままの格好で、こちらを覗き込んでいる。
悪くない。何かお近づきになる話題は無いかなと思った。
「ねぇ、大丈夫?」
「ええ、何とか。」
「救急車か消防車かレッカー車、呼んだげようか?」
「いえいえ、それには及びません。携帯持ってますし。」
「あっそ。んじゃね。」
そう言うとその女性はスクーターを吹かして行ってしまった。
あれは確か。思いだしかけた割楽の注意は飯霧の呻きに引き寄せられた。
「ここは ....」
「京浜工業地帯。」
「私はいったい ....」
「有能な私の手下。でも時々チョンボ在り。」
「会長、生きてたんですか。」
「何だか死ねば良かったって聞こえるなぁ。」
「そんなこと言ってませんよ。」
表向きは。とは付け足しはしなかった。
二人はしみじみと辺りを見回した。
車の前部はフロントガラスの向こうから先が無くなっていた。
後部シートから後ろも無かったが、それ自体は十数メートル程後方の
電柱に食い込んでいた。屋根も無く、二人は道端にゲームセンターの
模擬ドライブゲームの機械を持ち出して坐っているがごときの
間抜けな情況に置かれていた。
「これは、どう解釈すべきなんでしょうね。」
「今回は見逃してくれたって事だろうね。恐らく。」
既にちらほらと現れている付近の工場への通勤者が奇異な物を見る
視線を投げながら通り過ぎていく。
二人はなるべく平然と立ち上がると、そ知らぬ顔でその場を離れた。
「どう、しますか。これから。」
「飯霧くん、命、惜しい?」
「勿論です。当然でしょう。」
「じゃ、これからは、」
「真面目にお日様の下で働きますか。」
「現場には出ない事にしよう。調べ物も溜まってるしね。」
飯霧は割楽の横顔を睨んだが、相手にされないので諦めた。
二人は飯霧が呼んだハイヤーで何処かへと去って行った。

*

蛍汰と火乃紀はそれから二晩アカマツ工業で夜を明かした。
紅絹思も一緒に居ると言い張ったのだが、それは阿嘉松社長と蛍汰が反対し
火乃紀がやんわりと諭したので、しぶしぶ家に帰っていった。
念の為にマルチレーラーに泊まり込み、誰かが必ず運転席に居る様にしたが
結局は何も起こらず、三日目の朝には二人は自宅に帰る事に決めた。
鎌倉の家に着くと、送っていった阿嘉松社長と山じぃ他、古くから居る
数人の社員も手伝って彩家の周囲を調べたが、特に変わった事は無かった。
「ちょっとでも何か気になることが在ったら、すぐに連絡しろよ。」
阿嘉松社長はそう言うと帰った行った。
見送った蛍汰と火乃紀が家へ続く坂道を登ろうとした時だった。
道の脇の縁石に坐っている人影があった。その一人は蛍汰は良く知っていた。
「チャンディ!」
火乃紀は蛍汰の顔を見て、それから向こうに居る少女を見た。
よく判らない。当然だった。火乃紀は昔のチャンディすら一度しか
会ったことが無いのだから。
チャンディはただ黙っていた。微笑んでいる様に見えない事もない。
いつのまにか、もう一人が傍に来ていた。多分、もう一人のはずだ。
「プレトだ。」
蛍汰がぽつりと言った。だが、よく見ると微妙に違う気もする。
そもそもプレトは二本足で歩いただろうか。

わたしのおともだちだよ。

チャンディがそう言うとともに、プレトの頭の部分が
パーカーのフードの様に後ろにずれた。
その下には細く癖の無い漆黒の髪を肩の辺りにまとわりつかせた
色白の子供の顔があった。焦げ茶の瞳が二人をじっと見上げた。
「誰なの?」
「さぁ。チャンディの知り合いらしいけど。」
その子供は両手を上げて、今度は火乃紀だけを見詰めた。
「抱っこしてってさ。」
蛍汰に言われても、火乃紀には躊躇があった。この子はいったい?
一瞬の間であったが、その子は手を降ろしてしまった。
その子の視線が下に落ちる。
はっとなった火乃紀は、そっと手を伸ばすとぎこちなく抱き上げた。
見た目のように冷たくはなく、そしてしっかりした重さが在った。
その重さを肩に一旦移してから、今度はしっかりと身体に手を回した。
「ごめんね。ちょっと驚いちゃったんだ。」
言葉が分かるのかは判らないが火乃紀ははっきりと伝えた。
その子供は満足した様に火乃紀の首に手を回した。
蛍汰と火乃紀はその子供を連れて家への坂道を昇り始める。
そして蛍汰はその様子を見送っているチャンディに向かった言った。
「一緒においで。」

うん。

チャンディの笑顔が、ぱっと咲いた。
そして二人を追い抜くと一気に坂道を駆け昇っていく
落ち葉が、まるで道を空けるように右に左にと舞っていた。

終り

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