秋雄はその日初めて隣町の古本屋に足を踏み入れた。 特に古書漁りの趣味があった訳ではない。 ふと入ってみる気になっただけだった。 案外普通の本屋と変わらないという気がした。 暫く本棚の間を縫って歩くと一冊の本が目に入った。 古めかしい皮の装丁を施した物で背表紙には何も書いていない。 手に取って見たが表紙にも題名は無かった。 頁をめくるが、やはり題名は無く目次すら無い。そして本文。 店主の老人が話しかけてきた。それは怪談なのだと。 貸し出すので是非持ち帰って読んで欲しいと彼は言った。 代金は気に入った場合にだけ受け取るという事だった。 妙な商売だとは思ったが、そこまで自信が在る本なのかと 興味がわいたので話に乗る事にした。 怪談だという話だったのでわざわざ夜まで待ってから読み始めた。 確かに面白い。次々に文章が目に飛び込んでくる。 止まらない。だが。 どうした事か、中程で頁が白紙になっている。 そこから先は全て白紙だった。唯一、奥付を除いて。 奥付には複数の、それもかなり大勢の名前が記されていた。 しかし、そんな事はどうでも良かった。 途切れた続きが気になって仕方ない。 白紙が始まる辺りの頁を何度も繰り返しめくった。 何か仕掛けが在るのでは無いかと。 ちっ。過って紙の縁で指を切ってしまった。 頁に小さな血の染みが付く。 これでは返本する事が出来ないではないか。 そう考えながら血の染みを凝視していると異変が起こった。 血の染みが、みるみると紙の中に消えてゆき 代わりに活字が浮き上がったのだ。白い頁の上に。 試しにわざと指の血をなすり付けてみると次々に活字が浮かび 少しづつではあるが頁が埋まっていった。 良かった。これで続きが読める。・ ・ ・ 数日後、秋雄の家を老人が訪れた。 応対に出たのは秋雄の妻だった。 妻が秋雄の死を告げると老人は驚いたが、 それでも手短に用件を告げた。 別の客に売約済の本を数日の約束で貸してあると老人は言った。 妻は言われた通りの特徴の本を難無く秋雄の部屋から 探してきて老人に渡した。 老人は深々と頭を下げると帰って行った。 店に戻った老人は、その本の頁をぱらぱらとめくっていく。 中程から突然、活字が鮮明になりインクの匂いが立ち上った。 老人は微笑みを浮かべながら真新しい段落を読み進めた。 そして満足すると奥付に秋雄の名を記してから本棚に戻した。