学校に向かって歩いていくいつもの面々。
「ごめん。ミズホ、別にイジワルするつもりじゃないんだ。」
猫を飼いはじめたことを、釈明するシンジ。
「シンジ様ぁ。」
まだ、顔色が悪いミズホが返事をする。
「ごめんね、ミズホ。私、知らなかったの。」
レイがちょっとすまなそうに声をかける。
「いいんですぅ。猫ぎらいは私の問題ですからぁ。」
「この際だから、猫ぎらい直しなさい。
でないと、いとしのシンジ様を起こしに行けないわよ!」
アスカがちょっと意地悪な笑顔でミズホに言う。
「はい、努力しますぅ。」
明らかに、無理をしている。
しかし、今さら追い出すわけにも行かないので、
シンジもレイもどうにも言いようがなかった。
アスカは朝のシンジ争奪戦が少し自分に有利になったと思ったが、
「だめ、フェアじゃない。」
そう、自分に言い聞かせた。
「明日からは、玄関先にミドリが居たら、
アタシが追っ払ってやるわよ。」
「は、はいぃ。ありがとうございますぅ。」
そんなアスカがシンジには嬉しかった。
何日か後の放課後、明日は土曜で学校は休みだ。
シンジの所にカヲルがやってきた。
「シンジ君、ちょっと相談したいことがあるんだ。」
いつものさわやかな笑顔、
だがシンジは何かの企みを感じとった。
「な、なにかな?」
「シンジ君のお母さまは、料理上手だろ、
ならシンジ君も多少は出来るよね。」
「料理なんてほとんどしないよ。母さんの手伝いを多少するぐらいで。」
「まあ、取りあえず見てくれるかな。」
そう言うとカヲルはビニール袋に入った黒い塊を差し出した。
「何これ?」
「もらいものだけど、トリュフ、知らないのかい?」
「名前は知ってるけど、初めて見たよ。」
「どう料理したら良いのか判らなくてさ。
シンジ君ならと思ったんだけど...」
「ぼ、僕にも判らないよ。
そうだ、委員長に聞いてみよう。
洞木さん。」
シンジが声をかけると、教室の後ろの方にいたヒカリがやってきた。
「なあに?碇君。」
「これなんだけど。」
カヲルの袋を指さすシンジ。
「もしかして、トリュフ?」
「知ってるの?」
尊敬の眼差しのシンジ。
「一応ね。でもどうしたのこれ?」
「カヲル君がもらったんだって。どうやって食べるか
聞かれたんだけど、僕じゃ判らなくって。」
「ごめんなさい。私もこんなのは料理したことないわ。」
もっともな話しだった。中学生が使うような食材ではない。
「シンちゃんのお母さんなら知ってるかも。」
いつのまにか、側に来ていたレイが言った。
「そうだ、母さんならきっとなんとか出来ると思うよ。」
「そうだね。」
気の無いカヲルの返事。だが、シンジは気付かない。
「よかったら明日にでも家に来ないかい?
母さんに料理してもらって皆でお食事会なんてどうだろ。」
「ああ、それはいいね。」
食材をネタにシンジを自宅に招く計画だったのだが、
話しがずれてきた。しかし、今さら軌道修整は難しそうだ。
ここは、シンジ君の家を訪問できるだけでもよしとしよう。
カヲルが思考の中を駆け巡っているころ。
「食事会か、そらええわ。」
「俺も一口乗せてくれるんだろシンジ?」
「もちろんだよ。アスカもミズホもおいでよね。」
「必ずまいりますぅ。」
「しょうがないわね。」
「洞木さんもね。」
「でも、いいのかしら。」
「気にしないでよ。ね、カヲル君。」
「ああ、もちろんだよ。」
カヲルの思惑とは裏腹に話しはどんどん広がっていき収束の兆しは
なかった。
「今度はもっとありきたりな食材にしよう。」
カヲルはそう思った。
翌日、食材のスポンサーであるカヲルは、他のメンバーより
一足早く碇家を訪れた。
「いらっしゃい。カヲル君。」
「さ、あがって。」
出迎えたシンジとユイが促す。
「お邪魔します。あ、これよろしくお願いします。」
そう言うと小さな包をユイに渡した。
「はい。うまくできると良いのだけれど。」
そして、台所に消えるユイ。
「紅茶でもどう?」
「ありがとう。いただくよシンジ君。」
カヲルのいつもの笑顔。
「そっちに座っててよ。」
シンジは居間のソファーを勧める。
「ああ。」
カヲルがソファーに腰を下ろし、部屋を見渡す。
するとソファーの前のテーブルに猫が居るのが目についた。
「シンジ君、この猫は?」
「ああ、ミドリって言うんだ。
最近、飼いはじめたんだよ。」
「ミドリ...」
カヲルはちょっと引っかかる返事をした。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ、シンジ君。」
「そう。あ、お茶を入れるんだった。」
シンジは台所へと向かった。
入れ替わるようにレイがやってくる。
「来たんだ。」
「ああ。ところで、この猫のことだけど。」
「名前でしょ。お父さまが決めたの。」
「ちょっと、驚いたよ。」
「驚かなくてもいいよ。」
カヲルとレイの心に声が響いた。
顔を見合わせ、そして声の主を見る二人。
「元気そうだね、カヲル。
知らないふりしててごめんよ、レイ。
二人が揃うのを待ってたんだ。」
テーブルの上の猫、ミドリは赤い目をして二人を見つめていた。
「ミドリ、やっぱりあのミドリなの?」
「ああ、そうだよ。」
「なぜ、ミドリがここに。」
カヲルが警戒した口調で聞いた。
「そんなに、身構えないでほしいんだけど。
言っとくけど、カスミの人形じゃないから。」
「ほんと?」
心配そうなレイの問いかけ。
「カヲルなら知ってたはずだけど。
私にカスミの力は効かない。」
「そうだったね。」
カヲルも少し緊張を解いた。
「どういうこと?」
レイが説明を求める。
「私は相手の心に自分の心を融合させることが出来るから。
カスミが私の精神を支配しようとすれば、それに対して
こちらはカスミの中に自分を送り込むわけ。
そこで無理に私を支配しようとすれば、自分の一部を壊すことになる。
そこまでは、いくらなんでも出来ないはずだから。」
その話で、二人は納得したようだった。
「どうやって、ここへ来たの?」
「香港をひき払った後、
私は一人だけ別な場所に隔離されてしまった。
私だけは、カスミの人形に出来ないことを
あいつも知ってた。だから、身体の自由を奪って封じ込めた。
隙をみて身体を捨てて精神だけを外へ逃がした。
それで、ここにこうしているという次第。」
「それで、身体の方は今は?」
「二人も良く知ってる、ある人に協力を頼んだんだ。」
「ああ。」
「いろいろ手を尽くしてくれたんだけど、だめだったよ。
すべて、灰塵に帰したといったら判るだろ。」
「そうだったんだ。」
レイが悲しげにつぶやく。
「気にしないでいいよ。自分で選んだ事だし。
それに...」
「え?」
「まあ、良いじゃないか。
こうして、また会えたんだし。」
無理をしているようでは無かったので、
カヲルもレイもすこし気が楽になった。
「実のところ、この町には何度か来てるんだ。
カヲルやレイがここで暮らしていることも前から知ってた。」
「じゃあ、なんでもっと早く会いに来てくれなかったの?」
「目立たずにコンタクトする手が思い付かなくて。」
「目立ってもかまわないじゃないか。」
「あいつをなんとかするまでは、そうもいかないよ。」
「でも、うちに来てくれてうれしい。」
「ちょっと、目的があるんだ。」
「なに?」
「ここしばらく、ぶらぶらしててね。
そうしたら何となく君たちの学校に行き着いたんだ。
べつに探したわけでもないけど丁度聞き耳を立てたら、
レイとカヲルの楽しそうな会話が聞こえてきた。
その会話のメンバーにちょっと興味が湧いてさ。
それで、わがまま言ってこの家に入れてもらったんだ。」
「だれ?気になる人って?」
「カヲルやレイが気にしてる人。」
「やれやれ。またライバル登場なのかい。」
カヲルが呆れたように言う。
「ライバルにはならないと思う。私のは純粋な興味だから。」
「信じらんない。」
ちょっと不満げなレイ。
「でも、なんで猫なんだい?」
もっともなカヲルの疑問だ。
「猫ならなんとなく邪魔にならずに置いてもらえるかなって。」
「ねぇ、ちょっと聞いていい?」
レイが興味津津に話しを切り出した。
「どうぞ。」
「猫ってどんな気分?」
「べつに。入れものが代わっても心は同じものだから。」
「でも、その状態では猫の精神と融合してるんだろ、
なにか不都合はないのかい?」
カヲルも気になっていたようだ。
「私の精神融合は緩やかだから。相手の意志を尊重するので、
問題は生じないよ。」
「行動するときの決定はどっちがするの?」
「そのときどきによって違うけど、大抵は彼女が決める。」
「ミドリが我を通すことはないのかい?」
「ときたま。一度、ゴキブリを捕まえて食べたことがあって、
それ以来は遠慮してもらってる。」
「うぇ。」
「おいしかったかい?」
笑いながら、カヲルが聞いた。
「聞かないで欲しい。」
「じゃぁ、違うことを聞くけど。
今は、ミドリの意志で身体を動かしてるのかい?」
「見れば判ってもらえると思うけど。」
ミドリの宿った猫は後ろ足を高々と上げて、
おなかの毛づくろいをしている。
「わからないな。」
「いくら良く知った仲だって、人前でこんな大胆な格好はしないよ。」
「はははっ。そうだね。」
カヲルはそう言って笑った。
「わかってて、わざと言わせただろう。」
「そんなことないよ。」
「クスクス。」
レイも笑ってる。
「なーにやってんのよ!」
その声に、カヲルとレイは顔を上げた。
いつのまにか二人の横にアスカが来ていた。
「猫に話しかけちゃってさ。大丈夫?」
アスカが呆れたように言った。
「ああ、ボクは動物の言葉が分かるんでね。」
カヲルはこともなげに言った。
ミドリからの呼びかけが突然だったため、
カヲルとレイは声に出して話してしまっていたのだろうか。
心の声で話していたつもりだったのだが。
「いらっしゃい。アスカ。」
シンジがお茶を持ってやってきた。
「アスカもお茶でも飲んでまっててよ。」
「だめ、忙しいの。」
「なんで?」
「チャンスだもんね。」
「なにが?」
「ユイおばさまの料理テクを勉強するチャンスってことよ。」
物事を肯定的に考える、アスカらしい理由付けだなとシンジは思う。
「レイ、アンタも来なさい。」
「うん。」
そう言うと二人は台所へ修行に赴いた。
「じゃ、僕たちでいただこうか。」
「あぁ、そうだね。」
シンジは持ってきたティーポットとカップをテーブルに置く。
紅茶をカップに注ぎながらミドリの顔を覗く。
「どうしたんだい?シンジ君。」
「さっき、ミドリの瞳がさ、赤っぽく見えた気がして。」
「光線の加減じゃないかい。」
「そうだよね。」
まだ、シンジには話さないほうがいいだろうと、カヲルは思った。
「あれ?アスカぁミズホは?」
シンジは大声で台所のアスカに聞く。
「すぐ、来るわよ。」
「そう。」
「そうそう、シンジ君。」
「なんだい?」
「ミズホ、猫ギライじゃないか。それで、来ないんじゃないの。」
「苦手は直ってないけど、姿が見えなければ大丈夫みたいだよ。
ミドリはここにいるから、上がってこれないことは無いと思う。」
「そうかい。じゃ、そのうち来るさ。」
ピンポーン!
玄関の呼び鈴が鳴る。
「はーい。」
シンジが出迎える。
「おはようさん。」
「やっ。シンジ。」
「こんにちは。碇君。」
「シンジ様ぁ、遅くなりましたぁ。」
役者は揃った。
「今日は大勢で押しかけて済みませんでした。」
ヒカリが台所でユイに話しかけた。
「そんなこと、気にしないでいいのよ。
大勢の方が食事がおいしいでしょ。」
「はいぃ。」
代わりにミズホが返事をする。
それほど広い台所でもないので、女性陣がすべて参戦することは
出来なかった。
ミズホとヒカリは後ろで見学だった。
「何だか、緊張するわね。」
でも、娘が増えたようでうれしいユイだった。
「これが、問題の猫かいな。」
「メインクーン、あるいはノルウェイジャン・フォレストキャットの
血が入っていると見た。」
トウジとケンスケは雑談で碇家の猫のことは聞いていた。
「僕だけ知らなかったみたいだね。残念だよ。」
大げさに悲しむカヲル。
「た、たまたまカヲル君が居なかったときに話題になってたんだよ。」
弁解するシンジ。
「いいんだよ。」
あくまで暗いカヲル。
「いいゆうとるんやから、ほっといたらええ。」
あっさり切り捨てられたカヲルはいじけて紅茶をすすった。
「もしかして、ソマリか...」
ケンスケは猫の血筋が気になるらしい。
猫を持ち上げたり毛をめくったりしていたが、
最後には引っかかれて、探求を中止した。
しばしの後、碇家の食卓には色とりどりの料理が並んだ。
カヲルのトリュフだけではこうはならない。
あらかじめユイがいろいろと用意していたものだ。
ただし、いつもの碇家の食卓には出ないものばかりで、
シンジやレイにとっても未知の料理が並んでいた。
「すごいや。母さん。」
「ええなぁ。シンジは、毎日こないなもん食うとるんか。」
「すごい。すごすぎる!」
「さすがだね。」
中学生にはふつう供されない品々。
とくに、食い物には目がないトウジは今日の幸せを噛みしめていた。
「皆も、手伝ってくれたのよ。」
ユイが女性陣の共同作業を強調した。
下ごしらえはアスカとレイも参加したし、
食卓の準備はミズホとヒカリが担当したのだ。
こんな時は男どもはほとほと役立たずだった。
「さ、冷めないうちに召し上がれ。」
「はい!」
全員、待ちかねたように返事をすると早速、料理をいただく。
「くぅーっ。わしは幸せもんや。」
「このまったりとした味わいは...」
「さすが、おばさまの料理は別格だわ。」
「おいしいですぅ。」
「この味付けは覚えてかなきゃ。」
「おいしいね。シンちゃん。」
「うん。」
「赤ワインが欲しい。」
皆に好評なようで、ユイとしても手を掛けた甲斐があった。
そんな様子を、居間の方から見つめるものがあった。
「失敗した。やっぱり人間の身体が欲しいなぁ。」
ミドリのつぶやきは、しかし誰にも届かない。
はずだったが...
「ごめんね。一緒のテーブルってわけにもね。」
ミドリが顔を上げると、ユイが一枚の皿を持って立っていた。
それを居間のテーブルに置いた。
皿には、シンジたちが食べているのと同じ料理が少しずつ取り分けてあった。
「ありがとうございます。」
ミドリの感謝はきっとユイにも届いただろう。
ミドリはありがたく料理をいただいた。
あっと言う間に料理は全員の胃袋に消えた。
後かたづけは男性陣が引き受けた。
感謝の意を込めて。
猫の手は動員されなかった。
「猫で良かった。」
ミドリはそう思った。
食事の後、シンジとトウジそれにケンスケは居間でTVゲームを始めた。
女性陣はそのままダイニングで、おしゃべりを続けている。
カヲルはソファーに座ってシンジ達の様子を眺めていた。
その隣のミドリが心で話し掛ける。
「ちょっと、いいかな。」
「なんだい?」
カヲルはシンジ達の方を向いたまま、
今度は心の声で答えた。
目立たないように会話を進めるために。
「ミズホの事なんだけどね。」
「そうだろうと、思ったよ。」
「彼女、変わったみたいだ。声も届いてない。」
「あいつのせいさ。」
「まさか、操られているの?」
「一時ね。今は自分を取り戻してる。
新しい自分だけどね。以前の記憶は無いんだ。
一度、壊れてしまったらしいから。」
カヲルの悲しみがミドリに伝わった。
「そんな事だろうとは思ってた。
初めてここの玄関で会ったときの反応でね。」
「と言うと?」
「ミズホ、前は猫嫌いじゃなかったはずだから。」
「なるほど。」
「おりを見て、心に触れてみるよ。」
「そうだね。ミドリならミズホの力になれるかも知れない。」
「でも、新しい身体を得る迄は無理か。」
「身体を?」
「そう。あの人が何とかしてくれるって言ってた。」
「そうかい。」
夕方になって、友人達はそれぞれ礼を述べて帰っていった。
シンジとレイは二人で所在無さげに居間にいた。
大勢が遊びに来ると、後の静けさが特に大きく感じる。
そして、ある賑やかな一日は過ぎ去って行くのだった。
その夜、帰宅したゲンドウは質素な夕食に疑念を抱いた。
「ごめんなさい。昼間のお客様にいろいろお出ししたら、
冷蔵庫空になってしまって。そのあとも、おしゃべりで
時間をとられてお買い物に行ってないの。
あなた、最近太ってきた気がするからたまには良いでしょ。」
ユイに一気に攻められて反撃の機会を失ってしまうゲンドウ。
「シンジめ、旨いものを食ったんだな...」
怒りはシンジにだけ向けられるのだった。