引き返そうとしたシンジは廊下の奥から聞こえる微かな音に
足を停めた。そして音のする方へ歩を進める。
校舎の一番はずれにあたる音楽室だった。
中からピアノが聞こえる。
防音のため他の教室とは異なる厚い扉をそっと開けた。
廊下に先程より大きな音があふれた。
慌てて中に入り扉を閉めるシンジ。
そして視線を移した先には、ピアノに向かう一人の生徒の後ろ姿。
「 ．．．」
無言で振り向いたのはミドリだった。
「あ、ごめん。邪魔しちゃったかな。」
「ううん。そんなことないよ。」
ミドリは静かに微笑んで答える。
「なんかさ、聞いたことある曲だなって思って。
　それで覗き込んじゃった。」
「知ってるの？」
「シューベルト。"鱒" だよね？」
「そう、第４楽章。」
「小学校のさ、学芸会で演ったことあるんだ。」
「ピアノを？」
「ううん、チェロ。」
「今度、聞かせて欲しいな。」
「む、無理だよ。それっきり全然練習してないし。」
「じゃあ、また始めればいいんじゃない？」
「そう、かな？」
「シンジ君、そういうの合ってると思うよ。」
「ほんと？」
「うん。」
その気になって音楽家も良いかな、などと思うシンジだった。
「ミドリ君、良かったらもう少し聞かせてよ。」
「いいよ、こんなので良ければ。」
そう言うとミドリは、ピアノを弾き始めた。
正確に先程の続きから。

そして曲が終りミドリが顔をあげた。
シンジが拍手を送ろうと思った瞬間、別の方から拍手が上がった。
「なかなかやるじゃない。」
アスカだった。
「アスカ、どうしたの。」
「どうしたのじゃないわよ！シンジがこそこそ教室を出ていくから
　気になって着いてきたのよ。」
「こそこそって ．．．」
「で、こっそりデートってわけ？」
「な、なに言ってるんだよ！そんな訳ないだろ。」
「わかってるわよ。そんなこと。」
「 ．．．」
またしても陽動に引っかかったシンジは、
それ以上なにも言えなかった。

「でも、ミドリにそんな才能が有るとはねぇ。」
「ありがとう。」
ミドリは、笑顔でアスカに答えた。
「ねえ、他のレパートリーは無いの？」
「譜面があれば、大体弾けると思う。」
「じゃあさ、明日にでも聞かせてよ。リクエスト考えとくから。」
「うん。」
「僕もリクエストしていいかい？」
３人が振り向くとカヲルが、開いた扉に寄り掛かっていた。
「カヲル君。」
「ひどいな、シンジ君。この僕を除け者にして ．．．」
「ごめん ．．．」
半分以上演技だろうとは思ってもシンジはカヲルのこれに弱かった。
「アンタはお呼びじゃないのよ。」
「そんな ．．．」
アスカには効かない手だったが。
昼休みもまもなく終わるので４人は教室に向かうことにした。
「いいこと、シンジ。これからはミドリのお手並は、みんなで聞くのよ。」
「わかってるよ。」
すっかり飼い慣らされたシンジだった。
「シンジくん、いつか僕が君を救い出してあげ ．．．」
ガスッ。
カヲルは午後一番の授業には遅れて出席した。

その日の帰り道。
アスカは、レイとミズホに昼休みの出来事を聞かせた。
「へぇー、知らなかったな。」
「すごいですぅ。今度はみんなで聞かせてもらいましょう。」
「当然よ。今後は絶対に二人ッきりはだめよ！」
「なんで？。」
「シンジはね、芸術系の才能にはとことん弱いのよ。」
「て、ことはぁ ．．．」
「ミドリ、今回はポイント稼いだわよ。」
「わたしも、なんか習おうかな。」
「今からじゃ、この路線で勝ち目はないわ。」
「そんなに上手いの？」
「半端じゃなくね。」
まるで、機械みたいに。とは口には出さなかったが。
「あんた達も、なんか売りを考えなさい。いいわね。」
「うん。」
「はいですぅ。」

カヲルは家の方角が違うので、帰りは途中までしか一緒ではない。
いつもはそこから一人なのだが、今日は用事が有ると言って
ミドリが同じ方角へ歩いていた。
「驚いたよ。いつ習ったんだい？」
「習ったのは私じゃないの。この身体のほんとの持ち主の子だよ。」
「まえに言ってた、経験や記憶の断片の事かい？」
「そう。すごくピアノが好きな女の子だったみたい。
　その習慣かな、無性に弾きたくなるの、時々。」
「じゃ、記憶の断片に対する違和感が減ってきたのかな？」
「多少ね。でも、まだ融合した訳じゃ無いの。」
「で、ピアノを弾くのはどんな気分？」
「悪くないと思う。」
「そうかい。」
カヲルはそっと微笑んでそう言った。
そして二人ともそれ以上はなにも言わなかった。

分かれ際。
「今度、遊びに行ってもいいかな。」
「いつでも。なんなら、寄ってくかい？」
「今日はやめとく。週末にでもね。」
「わかったよ。じゃ、また明日。」
「うん。じゃあね。」
そして、ミドリはすたすたと歩き去った。
姿勢が良く、颯爽としていた。
カヲルは、そんなミドリの後ろ姿をずっと見つめていた。